新島襄終焉の地 碑前祭
1月23日(土)、神奈川県大磯町の新島襄終焉之地碑庭園において、多数の校友と地元の方々が参加して
「新島襄終焉の地 碑前祭」が行われました。
式では黙祷と讃美歌斉唱の後、主催者を代表して同志社大学村田学長より、式辞がありました。
黙祷 右は司会の学校法人同志社 浜 吉輝 財務部長
讃美歌312 斉唱
式辞 同志社大学 村田晃嗣 学長
1890年1月23日、校祖 新島襄が京都から遠く離れたこの大磯の地で客死してから126年の歳月が経ちました。
1890年には教育勅語ができ、商法、刑法、民事訴訟法が次々にできて日本がまさに近代国家になる時でした。
有名人では画家のバン・ゴッホが亡くなった年であり、後にアメリカの大統領になるアイゼンハワーが
生まれた年であります。
それから126年経ち日本を取り巻く環境は大きく変わりました。
しかし、新島が目指した市民による高等教育、市民社会の担い手を支えるという理念は変わりません。
最近、本学法人の関係者がゴミ処理の問題で逮捕されるという大変遺憾な事件が起きました。
理事長を中心に対応し、捜査の最中でありますが、信頼の回復に努めたいと思います。
今朝の京都若王子、新島襄の墓にて讃美歌312番を歌い、またこの地でも歌いました。
「悩みかなしみに 沈めるときも 祈りにこたえて 慰めたまわん 世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん」 この言葉を胸に前進してまいりたいと思います。
次に卒業生を代表して、同志社同窓会 加藤聖子東京支部長から挨拶がありました。
挨拶 同志社同窓会 加藤聖子 東京支部長
「吉野の山 花待つころの 朝な朝な 心にかかる 峰の白雲」「天を恨まず 人を咎めず」
と新島襄先生は申されました。亡くなる前日に徳富蘇峰にこの二つの言葉を口述筆記させ、
同志社の学生のことを思いながらお亡くなりになりました。
また、生涯大切にされたお言葉に「人ひとりは大切なり」があります。
新島襄先生の生涯は本日も咲いています寒梅そのものでした。
熱心なクリスチャンであり、アーモスト大学のリベラルアーツで学ばれ、
多様性に富んだ偉大なる先生でした。
私は同志社に学んだことに感謝し、卒業して何十年も経ちますが、常に新島先生のスピリットである
「良心を手腕に運用する人物を育成する」という言葉を身にしみて感じるています。
最後になりましたが、寒い中、大磯町の皆様、同志社の関係者の皆様お集まり頂きまして
ありがとうございました。
引き続き、大磯町詩吟連盟による新島襄作の「寒梅詩」「送歳詩」「いしかねも」の朗詠がありました。
特に寒梅が好きだった新島襄の志を歌った寒梅詩の「風雪を侵して開く 争わず又つとめず
自ずから百花さきがけを占むる」には感動いたしました。
詩吟・和歌 朗詠 大磯町詩吟連盟のみなさん
司会 学校法人同志社 浜 吉輝 財務部長
Doshisha College Song 斉唱
参加者一同によるDoshisha College Song斉唱の後、最後に村田学長、東京校友会金屋副会長、
校友会神奈川県支部竹村支部長、同窓会東京支部加藤支部長の献花にて、
滞りなく「終焉の地 碑前祭」は終了致しました。
新島襄の終焉の地を守って頂いている大磯町の皆さまに感謝申し上げます。
献花 東京校友会 金屋憲二郎 副会長
献花 校友会神奈川県支部 竹村慶三 支部長
また、東京神田・学士会館での「新島襄生誕の地 碑前祭」を始められた校友会東京支部の西村元支部長が、
90歳を超えても元気に参加されているお姿を拝見し、後輩である私達も伝統を守っていく決意を新たにした
時間でした。(大磯の「終焉の地 碑前祭」は、昭和50年代、津下統一郎東京支部長の時代に始まりました)
西村四郎 元東京支部長
東京校友会 金屋憲二郎 副会長
東京校友会 片桐 陽 常任幹事
参加者には、芳名を書く時に同志社のロゴとネーム入りのボールペンを、
帰る時には、新島襄先生が大好物だったぜんざいを頂きました。
多くの皆さまのご尽力にて、大磯町での新島襄終焉の地 碑前祭は滞りなく終了致しました。
ありがとうございました。
ご参加できなかった方々には2月12日の東京神田・学士会館での「新島襄生誕の地 碑前祭」を
ご案内申し上げます。ぜひお越しください。
文責/作村満明 (昭和52年法学部卒) 写真/新田博伸 (昭和52年法学部卒)