歩こう会企画 「新島襄の足跡を訪ねて‐玉島・高梁」
実 施: 2017年10月14日(土)~15日(月)
参加者: 大槻、稲垣、金屋、岸本、近藤、鈴岡、鈴木、竹尾、向井、
若園、寺戸 計11名(男性5名、女性6名)(敬称略)
今回の旅で同志社45東京クラブ・歩こう会による7年にわたった新島襄の足跡を訪ねる旅は
国内においては終了。 以下が訪問記録である。
2010年2月10日 新島襄終焉の地・大磯
2010年10月20日~21日 墓参・同志社英学校・京都・今出川・田辺
2011年8月3日 新島襄生誕の地・東京学士会館(安中藩江戸屋敷跡)
2011年10月22日~23日 布教の地・群馬県安中市・安中教会
2012年11月2日~3日 密出国の地・函館
2013年10月23日~24日 新島八重の足跡を訪ねて・会津
2015年10月17日~19日 緊急避難の地・青森県風間浦村(下風呂港)
2017年10月14日~15日 快風丸による初航海上陸の地・玉島港、布教の地・高梁
10月14日(土)午前7時00分羽田空港第一ターミナルに集合。
午前8時発JAL231便で岡山空港へ。定刻9時15分着。
ここで前日から岡山入りしていた大槻さんと合流。
計11名でトヨタレンタカー事務所に移動。3台に分乗の後玉島を目指し出発。
目的地の玉島港西爽亭へは約40km余りの距離で、倉敷市の北西方向に位置している。
各々のレンタカーのナビの設定が思う様に行かず、1.2号車は遅れたものの
何とか西爽亭に到着したが、3号車は大幅に遅延。
結局12時を回ってしまい、多大なるご迷惑をお掛けしたが、
玉島在住の倉敷地区叙勲者の会事務局長の友國氏、及び同志社玉島新島研究会の
鈴木会長他会員の皆様にお迎えいただき、非常に限られた時間ではあったが
新島襄上陸の碑、西爽亭の内部を拝観。
ここで一命を賭した熊田恰の最期の瞬間等のご説明を賜った。
玉島は高梁川の河口に位置する港で、備中松山藩(高梁市)の飛び地(領)であった。
備中松山藩の外港として水運が盛んであった。
時の備中松山藩主の板倉勝静(カツキヨ)と新島襄が仕えていた板倉勝殷(カツマサ)は
親戚同士であり、安中藩は備中松山藩の分家であった。
備中松山藩の行財政は破綻寸前であったが、儒学者の山田方谷を登用。
10年で見事に再建。その成果の一つとして洋式帆船「快風丸」を米国より購入し、
備中松山藩の領地であった倉敷の玉島を拠点に、その船を貿易等に使う事とした。
山田方谷の推薦で松山藩に登用された玉島出身の漢学者川田甕江(オウコウ)が
藩の近代化を進める為に洋式帆船の購入を上申した。
川田甕江は松山藩の分家である安中藩の儒学師範を兼ね同藩の新島襄を教えていたが、
当時軍艦の操練所で訓練を受けていた新島襄に乗船を要請。玉島への初航海となった。
この玉島への航海が新島襄を駆り立て、1964年再び快風丸で函館へ向かい密出国となる。
玉島なくして同志社大学なしとの玉島新島研究会のご見解に一同頷いた次第である。
その後民宿一休にて同志社玉島新島研究会の方々と昼食。歓談。
食事の後付近の良寛和尚縁の曹洞宗円通寺を拝観。
途中で見つけた綿の花(水島地区で主として栽培)を愛で、
風景をしっかりと脳裏に焼き付けて玉島を後にした、
友國様始め玉島新島研究会の皆様には本当にお世話になりました。
同日午後3時宿泊先の倉敷国際ホテルにチェックイン。
早速美観地区を散策。天気予報に反し良い天気で汗ばむ位の陽気であった。
美観地区から旧倉敷紡績倉敷工場を改修した複合交流施設の倉敷アイビースクエアに立ち寄り、
内部を散策。企業の社会参加の一形態を拝見して考えさせられる事大であった。
その足で本日の夕食場所である、居酒屋「駄々」へ。そこで倉敷在住で同年度卒の河田氏と合流。
河田氏は午前中の柚木邸(西爽亭)訪問から付き合っていただき、今回の居酒屋も手配していただいた。
瀬戸内海の魚類を売りにしているとあって蛸の刺身と締めの穴子飯は絶品であった。
食後ホテルに帰る人、2次会参加の人と別れたが、皆それ程遅くはならず早めに就寝。
翌朝は雨。8時30分にホテルを出発。高梁市にある備中松山城の駐車場である城見橋公園に向かう。
ここで又もや2号車にカーナビの操作不慣れによるミスが発生。
1号車、3号車の皆さんを大幅に待たせる結果となった。シャットルバスに乗り換えふいご峠へ到着。
雨の中、備中松山城を目指す。途中体調のすぐれない2名を除いては全員完歩。
この備中松山城は標高430メートルの山頂付近に建ち、
日本三大山城(備中・松山城、奈良・高取城、東美濃・岩村城)の一つとして数えられているとの事。
下山後シャットルバスにて元の城見台公園へ。
そこから昼食場所の高梁国際ホテルに向かう。
予め予約の料理が着席と同時に配膳。さすがホテルです。
13時前にホテルを後にして高梁基督教会へ向かう。
高梁基督教会では八木橋牧師様と奥様にお迎えいただき、
早速礼拝堂にて牧師様より高梁市と新島襄に関するお話を伺う。
キリスト教を学ぼうと志した若き新島襄が幕末・備中松山藩士らの支援で渡米を果たし、明治7年に帰国。
翌年同志社英学校を設立。明治13年に高梁を訪れキリスト教の神髄を伝授しようとした。
約5千人の高梁町民の中から16名の方々が新島襄の教えに触発され、
明治15年高梁基督教会の設立となっている。新島襄は明治16年にも高梁を訪れている。
勿論キリスト教に対する反発は高梁においても例外ではなく迫害事件も起きている。
が、当時の岡山県令高橋五六によるキリスト教徒側に好意的な介入によって鎮静化していった。
八木牧師様のお話から、ずっと疑問におもっていた点。
つまり幕末鎖国下の日本で周囲全てに害が及ぶ密出国という当時の大罪を犯してまで
何故新島襄は米国に渡ったのかという疑問である。
様々な説明を過去受け入れてはいたけれど納得し切れていなかった事に対し、
新島襄の心底を構成する心理的要因、外的要因及び環境等一つ一つ丁寧に
ご説明いただき疑問が解けた様に思える。
先君に比して板倉勝殷公は愚君であり、新島襄とは合わなく圧迫を受けていた点。
玉島への航海及び滞在による精神的視野の広がりと玉島で会得した自由。
山田方谷から川田甕江に教えられた天への誠実さと隣人への仁愛が
川田の弟子であった新島襄の精神性を養った背景等々、
高梁に来て良かったと思えた瞬間であった。
八木橋牧師様、本当にありがとうございました。
限られた時間ではあったが、牧師様に教会外をご案内いただき、貴重な時間を過ごすことが出来た。
感謝と共に14時20分に教会を後にして岡山空港に向かう。
途中カーナビによるトラブルも発生したが、全員無事に岡山空港に帰着。
16時45分岡山空港発JAL240便で17時55分羽田空港に到着。解散した。
文責:寺戸重光(S.45.文)歩こう会担当幹事
写真:近藤正二(S.45.商)