実施日:2012年 9月15日(土)
参加者名:奥田さん、大島さん、小関さん、鈴木さん、丹羽さん、沼田さん、向井さん、及び寺戸で計8名
9月15日、池袋駅08時50分発飯能行急行の車内に集合。
本日の行程は、飯能駅にて秩父線に乗り換え武蔵横手駅下駅を起点としハイキングコースを辿り、北向地蔵、横手山を経由して日和田山山頂に至り、下山して高麗駅に到着というものです。
歩程約10km。気温は30度以上。初心者コースですが、暑さの為ハイクの条件としては余り良くはありません。
リンク>> 滝とのどかな高麗の山里への道(PDF)
course_hiw.pdf
09時54分電車は武蔵横手駅に到着、緑の豊富な土地で集合時間に多少のずれはありましたが10時過ぎに出発。
熱中症の危険性もあるので慎重に道を選びましたが、幸い木陰の多いなだらかなコースで、このまま実施する事に決定。
11時30分予定通り北向地蔵に到着。一息入れた後物見山を目指します。
12時10分着。山頂は平たんで割りと広い場所ですが、何か普段の山登りと異なる雰囲気。
周囲を見渡すと若い女性が10名程度。
今流行りの山ガールでしょうか。
良く見るとカメラマンがそれぞれの山ガールを写真に収めています。
おそらく、山の雑誌か、登山道具店のカタログに使用するのでしょう。
ここで我々も昼食。本日の紅一点、鈴木さんの梨の差し入れには皆さん大感謝です。
適度な休息の後、更に前進。
小さな嶺を超えて日和田山の麓に到着。
ただ、暑さの中の歩行で疲労が生じたのか、山頂に立ったのは2名のみ。
暑さの為か皆さんお疲れのご様子。早々に山を下ります。
次の目的地は『手打ち蕎麦屋玄蔵』。
幹事が昨日の内に電話を入れたところ、手打ち蕎麦なので完売し次第閉店との事。
それでは困るのでお願いして8名分の蕎麦を予約しておきました。
地図を片手に蕎麦屋に向かいます。
14時20分頃到着。反省会の始まりです。
先ずは暑さの中を歩いたご褒美に全員で生ビール。続いて、蕎麦湯で割った焼酎と続きます。
最後に蕎麦で締め。
16時頃に店を出て徒歩で高麗駅に向かいます。
高麗駅到着が16時20分頃。余り乗客がいない為か駅員も自動券売機の掃除とかでのんびりした雰囲気の駅でした。
予定通り、16時41分発の電車に乗車。
飯能駅で乗り換えて池袋駅に向かいます。
帰途の経路の異なる人が順次途中下車で、電車の中で自然解散となりました。
皆さんお疲れ様でした。
今回は直接歩けませんでしたが、この高麗という地は以下の由来があるようです。
(引用)
高麗とは?
古代韓国から中国にかけて百済、新羅、高句麗という国が存在。高句麗は紀元前37年から668年まで存在し たが668年に新羅・唐の連合軍により滅亡。民の一部は日本へ脱出。当時駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国に居住していた高麗人1,799人 を武蔵の国に移し西暦716年に武蔵国高麗郡が建都(現在の埼玉県日高市となります)。高麗郡の首長として王の姓を与えられ、初代高麗郡司に任ぜられたの が若光で、高麗神社は高麗王若光を祭神としている神社です。高麗王と言っても高麗の王様という意味ではなく、高麗王はコマノ『コキシ』と読みます。これは 朝廷が定めた姓のひとつで、例えば織田信長を朝廷において呼称する場合には平朝臣信長となります。氏が平で姓が朝臣で、名前が信長となります。つまり姓と はその家の家柄とか格を示すもので、後世、任意に名乗った姓とは異なります。日本の歴史においては、710年に始まる奈良時代初期の出来事です。
では、高句麗が何故高麗なのかというと、古代日本においては「くだら」、「しらぎ」という読み方に対応する日本の古名は「こま」でありました。
居住の中心となったのが、高麗川流域で川の浸食により形成された巾着の形をした土地で「巾着田(きんちゃくだ)」といわれています。この巾着田は初秋には曼珠沙華が有名で、今回のコースから天気が良ければ展望可能です。
文責・写真 寺戸(45.文学部卒)