栗(九里)より(四里)美味い一三里半……
何のことかお分かりかな。江戸の焼き芋行商人のキャッチコピーである。一三里半とはさつまいもの産地川越城下の札の辻からお江戸日本橋までの距離である。
川越甘薯は栗より美味いよ! つまり一三里半とはさつまいものことを指しているのである。川越をさつまいもの一大産地にしたのは「智恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱である。川越藩を武州一の大藩にならしめた信綱は、まず川越城を堅固な城郭として、市をひらき商業振興にのりだした。かくして城下には豪商が育ち、関東一円の物産集散地となった。なかでも信綱が最も力を注いだのは広大な武蔵野の開発であった。玉川上水を野火止までひっぱってきて、なんと収穫高を禄高の5倍にしてしまった。さつまいもはその三富地方で増産され、新河岸川の舟運で江戸の花川戸(浅草)まで運ばれていったのである。
<妙善寺にて>
川越といえば今も街をあるけば、さつまいも……。あちこちの物産店はもとより1番街の商店でも、さつまいもばかり。芋羊羹、芋せんべい、芋納糖、さつまいもチップス、プリンまでもがさつまいもである。われらにとって、さつまいもは愛憎半ば、悲喜こもごもの想い出がある。戦後、育ち盛りだったあのころ、誰しもの空腹をみたしたのが劣悪なさつまいもだったのである。「農林1号、あれはマズかったなあ」
昼食をとりながら、メンバーのひとりの捨て台詞だが、こんな話が通じるのはわれらが最後の世代だろう。
そのわれらもふと気がついたら古稀を過ぎている。こんどの「日本の原風景遺産めぐり」で地元のガイドさんに同行依頼したのは、もはや旅という旅はすべて一期一会であるという諦念もあって、中身を濃くしたいという幹事さんのもくろみからである。
<五百羅漢の前で(喜多院)>
初回の「川越七福神めぐり」の同行人はMさん、赤いブレザーで知られているシルバー人材センター公認の案内人である。われらと同年齢だったのも何かの縁というものだろう。新年にふさわしい七福神めぐり、まずは1番の妙善寺の毘沙門天、2番の天然寺は寿老人、第三番の喜多院の大黒天へ……と、Mさんにしたがって街中をゆっくり徒歩でゆく。陽ざしはあるがときおり寒風が乾いた空に舞っていた。
巡歴の道筋は川越の名所旧跡をかこむようになっており、喜多院、五百羅漢、そして本丸御殿にも踏み入れ、Mさんの解説で歴史的な背景も知ることができた。
<川越本丸御殿にて>
福をもたらす七柱の神さまに参拝した後は、川越のランドマークというべき時の鐘、そして蔵造りの街なみを、ひしめきあう観光客のあいだを縫うように歩いた。江戸後期の風情が残っているのはこの界隈だけ……と、語る服部民俗館の館長に蔵の街の番人の風貌をみた。川越最古の蔵造りで重要文化財でもある大澤家住宅、まずは黒光りするふたつの大黒柱の太さに眼を奪われた。耐火・耐震構造にもすぐれ、川越大火のときも焼失をまぬがれたという同家屋、そこに古人の智恵とすぐれた職人の練達の技をみた。
<昼食は老舗うなぎ屋で>
休憩も含め歩くこと5時間、総歩数は17,000、なんと約13㎞も歩いたことになるという。「この会は歩く会かいな?」 初参加のメンバーからそんな声があがって、瞬時ことばに窮してしまった。
<蓮馨寺にて>
大半は昨年の秩父巡りのメンバーで、いくら歩いても平然としている連中ばかりだから、さして気にとめていなかったが、寒中のことで古稀をすぎた身の上を考えれば、あるいは平均的なモノサシをはみ出しているのかもしれない。素朴な一言がまるで警鐘のようにひびいたからである。
<蔵づくりの町並み>
<時の鐘>
<小江戸「蔵里」>
打ち上げは酒蔵を彷彿させる和風レストランで、歩き疲れて冷え乾いた身体を地酒が隅々まで温め、うるおしてくれた。
◇東京40会「日本の原風景遺産巡り」小江戸川越七福神めぐり
・日 時 :2015年01月18日(日)10:30〜
・集合場所 :東武東上線「川越」駅
・天 候 :晴れ
・参 加 者 :10人
・コ ー ス :川越駅⇒妙善寺(毘沙門天)⇒天然寺(寿老人)⇒喜多院(大黒天)⇒成田山(恵比寿天)⇒本丸御殿⇒(昼食)⇒菓子屋横丁⇒見立寺(布袋尊)
⇒妙昌寺(弁財天)⇒蓮馨寺(福禄寿)⇒蔵造り街散策
文責 福本 武久
写真 宮野 小川
あとがき
「そうだったのか、小江戸川越」
七福神と江戸時代の面影を訪ねる川越めぐりは、とりわけ公認案内人様のプラスワンの創意工夫が味付けとなり、余韻に残る旅の思い出となりました。
奇しくも、小説家福本武久氏が2011年に「武州かわごえ繋舟騒動」を発表されているのを知ったのは、不覚にも直前になってからでした。
今回、訪れた川越を舞台にした時代小説『「武州かわごえ繋舟騒動』の著者、福本さんに、この本を書かれた背景を伺いました。(以下、ご本人のお話)
本作は夜明け前の日本を描いた歴史・時代小説です。舞台となるのは川越、江戸時代の武州川越は東国の穀倉といわれ、関東一円の物資集散地でした。
川越に集まる物資は陸路でなく舟運で江戸に運ばれてゆきました。荒川の西側にあって、川越城下よりほぼ一里の間隔を保ち、並行して流れる細い川筋が現在もあります。松平伊豆守がひらいた新河岸川です。今ではほとんど知られることのないこの新河岸川は、川越と江戸を結ぶきわめて重要な水路でした。
川越には扇河岸、上・下新河岸、牛子河岸、寺尾河岸の5つの河岸がひらかれ、新河岸川にはつねに300〜500艘もの高瀬舟が往来していたのです。
嘉永3年、川越では藩をゆるがす騒動がもちあがります。
舟賃の増銭をめぐって、船頭、舟問屋、川越商人が3つどもえの様相! 船頭たちは4月と8月の2度にわたって舟を繋ぐという実力行使に出たのです。江戸では米騒動が起こり、川越では諸物価が暴騰しました。夜明け前の日本、政治的にも経済的にも混乱が深まるなか、台頭してきた新しい労働者層(船頭、馬子たち)と、新興の市民層(川越商人、河岸問屋)の利害が対立、それは幕藩体制にもゆさぶりをかけてゆきます。そんななかで主人公・炭屋半蔵は河岸の将来を冷静にみつめていました。利害対立する舟問屋をとりまとめ、藩役所はもとより船頭と川越商人さらには街道の馬子たちの間を奔走する。幕末の川越を舞台にそういう河岸のリーダーの姿を描いています。
ちなみに半蔵は実在した人物です。
福本武久著『武州かわごえ繋舟騒動』(BookWay刊 電子本 hotoで発売)
http://honto.jp/ebook/pd_10165165.html