同志社東京校友会

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東京38会 東京38会

年次会活動

東京38会

開催日:2014年11月25日(火) 13時30分~16時
場 所:同志社東京オフィス・セミナールーム

 朝から小雨模様の寒い一日でしたが、今回も参加者は23名集まりました。
講師は2度目の登場の秋田健太郎氏と、初めての福田慶治氏に務めて頂きました。

「秋田講師」
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[Ⅰ]秋田健太郎氏  テーマ「毛利一族の変遷と”本能寺の変“」
 ・中国平定と足利義昭の処遇を巡って、織田信長が秀吉等を使って毛利一族との間で激しい駆け引きを展開、 一方、東の甲斐では武田勢との戦闘を繰り広げているという中で起きた「本能寺の変」について、一般的にいわれている明智光秀の信長に対する怨恨が原因とい う説を採らず、これは以下に挙げるような背景、事実から“光秀と家康の同盟成立がもたらしたものである“というたいへん興味ある新説を開陳された。

「根拠」
●1.武田滅亡により、それへの抑えとしての自分の役割、利用価値がなくなってきたことを家康自身が感じ始めていた
2.駿河割譲の礼に安土に来る家康を、饗応の催しで謀殺するよう信長が光秀に命令、しかし光秀はこれに大反対を唱えひどく叱責された
3.ほぼ形勢がついていたにも拘らず中国出兵と称して信長は上京を決意、先陣として明智軍に本能寺で家康を討つ命令を出す(光秀に本能寺に行く口実を与えてしまう)
4.信長の家康謀殺命令のあと、光秀側と家康側の間で頻繁に会談が持たれ 談合したことがうかがわれる
5.信長最後の言葉「余は余自ら死を招いたな、是非に及ばず」は、光秀の刃の先を自分の方に向けさせてしまった、墓穴を掘ってしまったな、という意味と考えられる
 ・毛利一族はこの後も各種変遷を繰り返していくが、毛利元就の遺訓「我が一族はただ数か国を保って子孫永代の計をなすべし」が、毛利家にとっては一つの足枷となり、本能寺の変、関が原の戦等の場面で毛利の動きがいまひとつ明確ではなく、目立たない存在に終始させたように思われる

「福田講師」
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[Ⅱ]福田慶治氏  テーマ「映画ビジネス、その変遷」
 ・大学卒業後、日活に就職。すぐに製作の現場である布田の撮影所に配属となり、製作進行係として俳優の世話、ロケ地の交渉、車輌の手配等の役回りをこなす。石原裕次郎、小林旭、浅丘るり子、吉永さゆり等のスターがおり、次々と大ヒット作品を出す日活は松竹、東宝などを圧倒していた時代であった。

(1)

映画ビジネスは製作関係(企画、脚本づくり、出資者の募集、収支計画・管理)、配給興行関係、二次利用関係(ビデオ・DVD化、テレビ放映、ネット配信)という3つの循環がうまく回っていくことが必要である。
映画人口は昭和33年の11億2700万人(1年間に映画館に足を運んだ延べ人数)をピークに減り続けているが、映画の果たしてきた娯楽性、芸術性、情報発信性といった役割は大きかったと思う。
今後の映画ビジネスの展開のためには、日本の独自性を追求した作品を追求していくことが大事であり、そのためには企画力を一層高めていくことが必要である。

文責:38懇話会奥山幹事

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