お江戸日本橋から出発
日 時 2012年5月14日(月)
10時~ 快晴この上なし
集合場所 日本橋道路元標前
東京メトロ 三越前駅
参加人員 38名
案 内 人 木村ケイ(29文)
半田 久(32文)
走行距離 5.8 km
《コース》
同志社東京歩こう会の結成から10年を迎えた今回第1回の「日本橋から品川・青物横丁まで」の一部をなぞって 日本橋から田町まで歩きました。
記念すべきこの日を祝福してくれるかのようなまたとない天気に恵まれました。
第1回の参加者20人のうち、今回も参加された方が数人いらっしゃいます。第1回から少し遅れて加入し、現在まで継続しているメンバーも多数です。
このような事実は歩こう会の良き伝統と魅力を感じさせ、この会が長く続くであろうことを予感させます。
以下、道中のポイントをいくつか紹介します。
(道路の基点 日本橋)
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603年)と伝えられています。
幕府は東海道をはじめとする五街道(東海道・甲州道・中山道・日光道奥州道)の起点を日本橋としたことが記されています。
橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。
現在の日本橋は、東京市により、石造り二連アーチの道路橋として明治44年に完成橋銘は徳川慶喜の筆によるものとされています。
(京橋の親柱)
京橋は、日本橋とほぼ同時期に架けられたと伝えられる歴史のある橋です。
昭和38年から40年にかけての京橋川の埋立て工事に伴い撤去されましたが、その名残を留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。
(銀座発祥)
銀座は慶長17年(1612年)徳川幕府が銀貨幣鋳造の銀座役所を設置しました。
当初町名は新両替町と呼ばれておりましたが、この頃から通称を銀座町と呼ぶようになり、明治2年銀座を町名とする旨の公示がなされま
した。これが銀座の地名の起源だと記されております。
(汽笛一声 新橋を)
明治5年(1872年)新橋~横浜間の開通が、日本鉄道の始まりですが、新橋駅前の顔である機関車〔C11〕は、製造から廃車まで姫路で頑張っ
ていたものです。
(西郷隆盛・勝海舟会見の場)
西郷・勝両氏会見地は、慶應4年(1868)3月14日、幕府の軍事取扱 勝海舟が薩摩藩蔵屋敷に於いて、 官軍の大総督府参謀 西郷南洲と最後の会見を行い、戦火が招く江戸市民の災厄と諸外国の内政干渉とを絶対に避けるべしと説き、両雄互いに憂国の誠意にうた れ、ついに江戸総攻撃は中止されました。
その蔵屋敷跡に現在建っている三菱自動車ビルの前庭には、「会見の地」の碑があり、その裏側には、此地薩摩邸に於て「西郷・勝 両雄会見し江戸開城の円満解決を図り百萬の民を戦火より救ひたるは其の功誠に大なり平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す。」
と本芝町会名にて記されております。
この日の解散後、JR田町駅の西口(三田口)の階段の壁面の「西郷南洲・勝海舟会見の図」の壁画を鑑賞した後、それぞれ家路につきました。