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第158回 護国寺から目白台・江戸川橋界隈を歩く

                           

日  時: 平成28年10月21日(金)10時から15時30分

集合場所: 護国寺 正門

天  候: 晴れ

参加人数: 29名

案 内 人 : リーダー   因幡 一男(37商)

      サポーター  外村(34法)、河内(42女大)、駒田(43工)

歩行距離: 7km

 

コース: 護国寺 ⇒雑司ヶ谷霊園 ⇒雑司ヶ谷旧宣教師館 ⇒菊池寛旧宅跡

⇒日本女子大(学食にて昼食)、成瀬記念館 ⇒東京カテドラル聖マリア大聖堂

⇒講談社野間記念館 ⇒永青文庫 ⇒関口芭蕉庵 ⇒江戸川公園~江戸川橋

 

当日は絶好の歩こう会日和に恵まれ、護国寺境内で準備体操の後スタートした。


① 護国寺
真言宗豊山派の大本山。天和元年(1681年)五代将軍徳川綱吉が

生母桂昌院の願いを受け創建された祈願寺。

将軍家の武運長久を祈る祈願寺となった。

明治以降は徳川家との関係が絶たれ一般人の墓所が造成された。

境内の東側は宮家の墓地、西側は陸軍用の墓地となった。

三条実美、大隈重信、山縣有明、 團伊玖磨、野間清治、コンドルなどが眠っている。

重要文化財でもある本堂前で集合写真を撮った。
 

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② 雑司ヶ谷霊園
三代将軍家光の寛永15年(1638年)には御薬園として、

八代将軍吉宗の享保4年には鷹狩の鷹の飼育場所として使われていたところ。

もと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ明治7年に雑司ヶ谷墓地として開設。

昭和10年に「雑司ヶ谷霊園」となった。10万㎡の霊園には著名人の墓が多数ある。

今回はその中から 夏目漱石、竹久夢二、ケーベル博士、永井荷風、羽仁もと子、安部磯雄、

小泉八雲、泉鏡花、大川端蔵の墓所を訪ねた。
 

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③ 雑司ヶ谷旧宣教師館
アメリカ人宣教師のマッケーレブが明治25年に新婚の妻らと来日、各地で伝道活動を行なっていたが

明治40年(1907年)に雑司ヶ谷に移り住み太平洋戦争開戦の直前まで宣教活動を続けた。

昭和16年に帰国するまでの34年間をこの家で生活した。
近代木造洋風建築として大変貴重な建物。

 

④ 菊池寛旧宅跡から日本女子大へ
大正12年に文芸春秋を創刊し昭和10年に芥川賞、直木賞を創設した文壇の大御所菊池寛が

晩年まで過ごした旧居跡を経て目白通りを進み護国寺門から日本女子大に到着した。

 

⑤ 日本女子大
12時15分頃、先ずは学生食堂へ。女子大生に混じって賑やかな昼食を摂った。
13時、成瀬記念館で学芸員より説明を受ける。

開校に至る経緯、広岡浅子と創設者成瀬仁蔵との係わり、政財界の重鎮の支援のことなど

朝ドラ「あさが来た」とダブらせながら拝聴した。

ここで思いがけず日本女子大と同志社との深いかかわりを知ることになる。

ガラスケースの中にはNijimaと署名入りの聖書や八重を中心に学校関係者の記念写真などが

数多く展示されていた。

 

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この後 本館の「百年館」低層棟屋上の泉フロートガーデンから都心の眺望を楽しんだ。

 

⑥ 東京カテドラル聖マリア大聖堂
最初に建てられた明治32年(1899年)は木造のゴシック様式。戦災で焼失。
物資不足で長らく再建されないままであった。

昭和37年(1962年)カトリック再布教100年事業の一環として設計コンペが行われた。

前川國男、谷口吉郎、丹下健三の3人によるコンペで丹下案が選ばれ、

大成建設の施工で1964年12月に竣工した。

吉田茂や丹下健三の葬儀もここで行われた。

 

⑦ 講談社の創業者野間清治の大正期から昭和初期にかけて収集した美術品や

講談社とゆかりの深い画家の作品が収蔵されている野間記念館~ 細川家に伝来する歴史資料や

美術品など9万点の文化財を保管している永青文庫の外観を見ながら本日最後の見学地 芭蕉庵へ。

 

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⑧ 関口芭蕉庵
江戸時代前期の俳人松尾芭蕉(1644~94年)が二度目の江戸入り後、

延宝5年(1677年)から3年間この地に住んだ。

当時旧主筋の藤堂家が神田川上水工事の改修をしていて 芭蕉はこれに参加、

工事現場か水番屋に住んだといわれ、ここから日本橋、深川へ移ったという。

後に芭蕉を慕う人たちによって建てられた家を「龍隠庵」と呼んだ。

これが関口の芭蕉庵である。その後焼失し現在のは戦後のものである。

 

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⑨ この後神田川沿いに歩き最終地点の江戸川公園に到着、解散となった。(15時20分)

 

(因幡記)

        

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