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NO.69 2015/09/01 発行  
発行:「同志社ファンを増やす会」
多田直彦:hgf02421@doshisha-u.net

 ・・・・・・・<「同志社ファンを増やす会」モットー>・・・・・・・

  新島襄と同志社をもっと知ろう
   学べば、同志社の良さが見え,
  母校に誇りと自信が持て,フアンになる。

 

69号9/1発行.pdf

 

連載5最終回新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか.pdf

━━ <目次> ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

  1.<論文> 5回連載 その5(最終回)
「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」

同志社大学名誉教授 井上勝也先生

        井上勝也先生(いのうえ かつや)の略歴
          1936年生まれ。同志社大学大学院文学研究科で教育人間学を研究。
          2004年退職。 同志社大学名誉教授。 
          主著:・『新島襄 人と思想』晃洋書房 1990年刊
          放送:・1991年「新島襄を語る」と題してNHKラジオで4回放送。
         ・1993年「新島襄の求道の生涯」と題してNHKテレビで放映。

   
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「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」

同志社大学名誉教授 井上勝也先生
             
 <前回のあらすじ>

密航の動機が、新島が読んだ①『聯邦志略』、②キリスト教関係の書物、
③『ロビンソン・クルーソー』 この3冊が大きい影響を及ばしたことは
何度か目にした。前回では、そのことを深く解き、なぜ、彼の価値観、
人生観を転換するに至ったのかが論じられていた。


<おわりに> 新島七五三太は何故密航を企てたのか

新島の密航には遠因と近因がある。遠因は既に見てきたように、彼が生まれ育った我が
国の内憂外患、疾風怒濤といった時代背景である。幕藩体制崩壊の兆しが顕著になり、
国防の責を負う武士階級にとって、外圧を阻止し、内治に貢献するという武士の使命感
が彼に働いていたことが考えられる。

私は次に新島の密航について、まず代表的な二人の研究者の分析を紹介したい。そして
最後に私の解釈を述べたいと思う。

最初に挙げる森中章光(1894‐1990)氏は同志社における新島研究の先達として、氏の
果たした役割は過小評価すべきではない。しかし氏が新島研究に没頭し、新島に魅せら
れ、盛んにその成果を発表していた頃は、丁度我が国が昭和12年日中戦争を開始し、
引き続いて昭和16年太平洋戦争に突入して、東京帝国大学の教授の中に熱狂的な皇国
史観を教壇から鼓吹する国粋主義的歴史学者がいた時代でもあった。森中氏は主著で
ある『殉国の教育者新島襄先生の生涯―海外修学篇』(昭和17年刊)で国士風の新島を
描き、時代を反映した表現を多く使っている。例えば次のような文章がある。
「戦運漲り、国運の前途暗澹たるを思ふ時、彼は憂国の至情に胸をうって、熱涙滂沱、
大義のために彼自身からも亦起たんことを希って止まなかったのである」。

新島は箱館滞在中ロシア正教の来日宣教師ニコライ・カサトキン(I. D. Kasatkin, 
1836‐1912)の求めに応じて彼の日本語、日本文化の家庭教師を引き受けた。
そのテキストに使った『古事記』について森中氏の叙述を紹介しよう。
「惟ふに、彼が江都を去って遠く函館湾頭に国家の危機を思ひ、深憂の胸を痛めつつも

日本民族の精神生活に於ける統一原理を具現せる、日本民族の悠久なる大理想を宣言
せるこの神典、日本民族の萬邦無比なる国家的精神が最も根深く、最も力強く全巻に
貫流充溢せるこの古典…」。この古典とは『古事記』のことであり、ここに当時の
日本思想における『古事記』の位置づけが、そして森中氏の『古事記』の評価が
如実に示されている。

森中氏が言う「弐十歳前後の青年新島七五三太はこの渾沌たる世相を眺めて、如何に感
じたことであろう。おそらく彼の胸中憂国の情制し難きものがあったに違ひない」とい
った理解だけでは彼の密航という大胆な行為を表現することは困難ではなかろうか。

新島の青少年時代は、我が国がいつ何時列強に侵略されるかも知れないという危機的状
況にあったことは事実である。しかし憂国の情だけでなくもう少し複数の理由を挙げて
立体的、総合的に彼の心理や行動を理解しなければならない。

本学の法学部で政治思想史を担当されていた伊藤彌彦教授は北垣宗治編『新島襄の世界
』(1990年刊)に「新島襄の脱櫪」という題で論文を載せている。新島の密航について
直接言及し蘊蓄を傾けた論文で、教授の独自の解釈が滲み出ている。次に教授の分析を
紹介したい。

伊藤教授は最初に新島の密航を「脱櫪」というキーワードを用いて説明する。
「脱櫪」の「櫪」とは、かいばおけ、馬小屋を意味し、脱櫪とは馬小屋に縛られて
いる馬が自由を求めて脱出することをいう。
新島は江戸の約4000坪の方形の安中藩邸で生まれ育ち、この閉鎖的な空間が彼の世界で
あった。教授は次のように述べている。「脱国に関して従来からいわれている国家的
危機意識とか西欧探索といった積極的かつパブリックな諸動機もさることながら、
幕末期の新島襄の抑圧と飛躍の足跡をたどってみると、もっと内面的でなまなましい
私的動機、また旧社会から飛び出したいという局面突破的な動機も大層強烈で
あったといわねばならない」。

次に伊藤教授は新島の脱櫪の動機を次のように述べている。「もちろん私的動機がすべ
てだったと考えているわけではない。もしそうならば私的動機が満たされた段階で、
平凡な一市民に堕してしまって、積極的な社会活動など続けなかったであろう」。
かといって公的使命観やキリスト教的信条からのみ新島の行動動機を解釈するのでは
あまりにもきれいごとすぎると思われる。
むしろ人間新島襄のなかのどろどろした私的動機がやがてパブリックな社会的活動に
展開していくという構造のなかに新島の偉大さがあったと思われる」。

私も伊藤教授の分析に大凡そ同意見である。しかし一つこだわるのは新島にとって密航
という大胆な行動を正当化する大義名分即ち行動の理由づけとなるはっきりした根拠と
推進力があった筈である。それが彼のいう「国家の為」ではなかったか。

新島はニューイングランドに到着後たびたび父民治や弟双六に密航の理由を「国家の為
」だと言っている。彼にとっての「国家」とはちっぽけな安中藩のことではなく、
安中藩を越えて幕藩体制崩壊後の我が国の在り方が常に彼の念頭にあった。
彼の『聯邦志略』を読んでの驚きはアメリカ合衆国という近代国家が我が国と決定的な
相違があるということであった。万延元(1860)年の遣米使節に同行した人たちから
収集したアメリカ情報も彼には大きなカルチャーショックであったと思われる。
新島は1865年10月、ハーディーから「何の目的でアメリカに来たのか」と問われ、
「……唯々種々の学科且聖経を修業仕、国家の為万分の力を竭さんと存し…」と
述べている。近代的学問やキリスト教を学びたい。
それが国家の為即ち近代国家の形成に役立つのだと考えていたのではないか。

新島は1872年5月から1年3カ月、岩倉使節団の一員として米欧8カ国の教育状況を調
査して廻った。そこで彼はアメリカを始めヨーロッパの近代国家における大学の数を
アメリカ368、イギリス34、ドイツ30と具体的に挙げている。
新島の畢生の事業は、日本にキリスト教を宣教し、キリスト教主義の中等教育機関をつ
くり、それを大学に昇格させることであった。そして究極的にはアメリカのような自治
自立の人民の力によって社会の変革を可能にするデモクラシーの国家の建設を夢想して
いたといえないだろうか。彼にとってこれらの事業はお国の為であった。明治政府が
東京大学をつくって統治(government)に必要な人材の育成を目ざしたのに対して、
新島は地方にキリスト教主義の学校をつくり、人材ではなく人物の育成を目ざしていた

新島の生涯を繙くと、密航はもとより彼が帰国後亡くなるまでの15年間に強力な大義名
分があったからこそ不可能を可能にするような活動ができたのではと考える。例えば明
治8年の学校設立時は筆舌に尽くし難い困難に出合い、山本覚馬の協力もあって1000年
の都のあった京都の地にキリスト教主義の学校を創ることに成功した。
明治15年から始まるキリスト教主義の大学設立運動および資金募集の運動も困難を
極めた。明治21年の教会合同問題も、主義主張を貫こうとする新島の考えに反対する人
たちが身内からも出てきた。

新島は47歳という短い生涯で、日本の風土や体制に馴染まないことを十分承知の上で、
なおかつ行動の理由づけとなるはっきりした根拠(大義名分)を見出し、万難を排して
実現に取り組む姿勢を示した。彼は「知足安分」という生き方の対極を生き続けたとい
える。

新島の畢生の目的は「自由教育・自治教会・両者併行・国家万歳」であった。彼のいう
「国家」とは第二次大戦中繰り上げ卒業をして戦地に送られた学徒兵が体験した国家主
義的な国家ではなく、自治自立の人民によって構成され、彼らが変革の主体になるよう
な民主主義的な国家であった。

新島は何故密航を企てたのかという問いに対して、伊藤教授が指摘するように、色々な
理由が考えられる。封建的桎梏から逃れたいだけではない。キリスト教を自由に学びた
いという願望もあった。私はそれらに加えて幕藩体制崩壊後の近代国家を模索すること
も大きな目的ではなかったかと考える。新島を教育者或いは宣教師という視点から迫る
方法もあるが、彼は自由教育(liberal arts education)を、そしてプロテスタント
キリスト教のうちの会衆派教会(Congregational church)を通して、彼の理想とする
近代国家像を米欧滞在中及び帰国後に着々と構築し、風土の異なる日本の地に
デモクラシー国家の実現に粉骨砕身した。彼は勝海舟の問いに対して彼の理想国家の
完成を200年先だという遠大な計画をたてていた。
彼は「千里の志」をもって、万難を排して、自分の健康を省みず、目的の実現に邁進し
た。

もう一度、何故彼は密航を企てたのか、という問いに対して、それは彼の信ずるvision
(幻、理想像)を求め、アメリカでそれを実現するための方策を探求するためであり、
それが「お国のため」になると確信していたからではないか、というのが私の結論で
ある。
環境(歴史的、風土的)が人間をつくる。しかし人間は環境を変える力を潜在的にもっ
ている。新島は幕藩体制の中で生きながら、体制に矛盾を感じ、体制を変革して新しい
体制を構築しようとして懸命に生きた典型的な人物であるといえよう。それを実現する
ために当時とてつもない行動(密航)をとったのではと考える。  (おわり)

<お願い>
5回にわたる長い論文でしたが、いかがお読みでしたでしょうか。
感想をお寄せ下さい。
また、新島から何を学び、どうのうな意義を見つけ、ご自分の人生に
活かそうと考えられましたでしょうか。お教えください。

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新島襄について学び、現在の意義を見つけ
これからの人生に活かしていこう

「同志社ファンを増やす会」本部

多田 直彦 hgf02421@doshisha-u.net

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