同志社東京校友会

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年次会活動

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6月22日、梅雨空の合い間を縫って、私達10名は清楚な大磯駅に降り立った。
大物政治家、文豪、経済人が人生の最期に憩う処だが、我が同志社の校祖:新島譲も47歳の若さで人生を閉じた処でもある。私達は新島襄終焉の地碑に集まり献花をし、しばし佇み黙祷をして、心の中で讃美歌とカレッジソングを唄った。

写真1 <新島襄終焉の碑を囲んで>
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写真2 <新島襄終焉の地 簡素に新島襄の生涯を説明>
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 皆の脳裏にドラマ「八重の桜」の校祖最後のシーンが蘇る、同志社大学設立のために奔走し、前橋で胃腸カタルを患いながら東京に戻り、それを見かねた徳富猪一郎が大磯海岸の百足屋旅館別館の愛松園で転地療養を勧めるが、1月に入り激しい腹痛に襲われ、医者に腹膜炎と診断されて最後の宣告を受ける、死を悟った校祖は枕元の八重と徳富猪一郎に30枚にも及ぶ遺言を伝え、1月23日午後2時20分、八重の手を取り「グッドバイ、また、会わん」と告げて永眠する。

写真3 <新島襄終焉の地の前で>
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 私達はその後周辺を散策した。駅前には札幌時計台を思い起こさせるような日本最古の米国式ツーバイフォー建築の有形文化財:旧木下邸別邸があり、そこから坂を下ると、島崎藤村と静子夫人の眠る地福寺に出た、そこから高い褐色の土塀が延々と続いた広大な緑地がエリザベスサンダーホームである、岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜が岩家大磯別邸を戦後の日米混血孤児の為に児童養護施設とした所であった。

写真4 <旧木下邸別邸の前で>
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 その後私達は心待ちにしていた湘南グルメの食事会に移った。茅ヶ崎の網本が経営する料理屋で地場の鮮魚を豪華に盛り付けてくれる海鮮料理に舌鼓を打った。
 シラス釜揚とシーザーサラダ、シラス出し巻き卵、シラスかき揚げのシラス三昧、ホタテのバター焼き、金目鯛の煮つけやブリかま、そして特大の海鮮丼に磯汁で〆た。
 お酒は勿論、生ビール、吟醸酒、芋焼酎のオンパレードだ、久しぶりに遠くから参加してくれた仲間と一瞬の内に溶け合い、自己紹介風の人生論議に花が咲いた。70歳を過ぎた同志社を愛する仲間の初夏の集いだった。

写真5 <海鮮料理「快飛」にて>
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◇日  時 平成26年6月22日(日)天候 雨

 集合場所 JR大磯駅 11時集合

 参加者 10名

 コース 旧大木邸別邸(有形文化財)⇒新島襄終焉の地⇒エリザベス・サンダー・ホーム

      ⇒JR大磯駅⇒JR茅ヶ崎駅⇒海鮮料理「快飛」

文責 藤川 

写真 宮野 


<あとがき>

 催行日は小雨が降る中、ときどき晴れ間が現れる行楽にはほどよい日でした。新島襄終焉の碑は昭和15年新島襄の門下生が、昔は東海道の宿場街で旧百足屋の敷地内に建てたもので、今は国道1号線の際にあります。、毎年同志社関係の人たちが碑前でご冥福をお祈りしています。願わくばいつまでも続いてほしいものです。集まったメンバーは久しぶりに参加された武藤さんをはじめ男10名です。神妙な顔で散策した面々でしたが「食事会」ともなれば、溌剌とした満面笑顔のひとときでした(40会幹事)

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