梅まつり期間中の土・日曜日はJR偕楽園駅に臨時停車する。幸運にも駅のプラットホームでお迎えの梅大使(2000年以前は梅むすめの呼称)と記念撮影。
写真1.<水戸の梅大使と>
昨年の秩父巡礼の旅からスタートした日帰り旅行会も今回で8回目となる。夏の暑い時期でも旅行当日は比較的涼しいなど、前回までのすべての旅行会は雨も降らず天候に恵まれていたそうだが、今回は午後から雨と春一番が吹くかもしれないという天気予報で、そのためか個人の記念傘を車内に置き忘れる人が出た。しかも、気になる梅の開花は例年より遅くて7%だとか。運がついていたのか? いなかったのか? は、追って鮟鱇(アンコウ)に聞くことにして、この会への初参加者2名と共にスタートした。
偕楽園
偕楽園には好文亭表門から入ってこそ、徳川斉昭公の造園思想の奥深い魅力を堪能できるとのガイドさんとの打ち合わせでの薦めもあり、常磐神社の参拝も早々に待ち合わせの表門へとひたすら向かったが、落ち合いに失敗し別の組に同行することとなった。表門は開園当時の面影そのままに、茅葺き切妻造りで角柱2本と副柱2本で支えられ、両側は瓦葺きの袖塀がつけられた黒塗りで、左手には陰のヤブツバキの巨木、右手は陽の山桜の巨木が植わっている。ここからすでに陰陽の世界が始まっているそうだ。
(注:ガイドさんからの話の聞き違いや想像による事実誤認・偏見はご容赦の上読み飛ばしてください。)
写真2.<名調子のガイドさんと好文亭表門で> <いざ入門>
一の木戸を通ると下り坂の左手に竹林、右手に大杉森が鬱蒼と茂っている。斉昭はけっこう実利的な人で、梅は緊急時に備えた梅干し、京都嵯峨から持ち込んだ孟宗竹は弓の材料、殺菌作用があるクマ笹は寿司や餅などの食物の包装、オカメ笹は割らずにそのまま編む篭として使われていたそうだ。今は毎年6月中旬に梅の実が格安で実販売されていると言う話を聞いている内に、江戸時代から水の枯れたことのない吐玉泉に着く。
写真3.<孟宗竹林><手前がクマ笹、奧の緑がオカメ笹、これも陰陽?>
(オカメ笹はタケノコの時の皮が落ちるので竹の仲間、クマ笹は皮が落ちないので笹)
写真4.<吐玉泉 (常陸太田市真弓山産出の大理石、4代目)>
この水は飲めないと看板にあるが、O157が問題になってからで、実際はそうではないそうだ。やはりガイドさん同行だと内輪話も聞くことができ、散策の中身が非常に濃くなる。太郎杉、仲門を通り右に折れて好文亭に着いた。ここまで表門から30分程度であった。好文亭ではガイドさんは外で待つと言う。なぜなら渋滞を起こさない様に中へは入らないことになっているそうだ。ありがたいことに70歳以上は無料で、生まれた年を言って中に入る。1階から3階への階段はとても急峻だ。狭い廊下では低い梁(?)で頭を打つ所があるなど、当時の用心深さがうかがえる。狭い配膳室があり階下の料理室で作ったお膳や酒肴を運搬する滑車付きリフトもある。好文亭から眺めるのが陽の世界、当時の千波湖の広さは今の3倍で水戸駅の遙か先まであったそうだ。亭内の各部屋の襖絵を堪能しながら約30分で一回りした。
写真5.<好文亭から千波湖を望む> <好文亭内の早咲きの梅 一流>
写真6.<偕楽園記の碑>
ガイドさんと再会して、陰陽の境目となる?芝前門から偕楽園記の碑に着く。この碑は開園の3年ほど前に建立し、城を造るのではないと間者に知らしめるために、園を造る趣旨を公示したものだそうである。藩主・斉昭が自らの文章を刻ませたものだが、漢文で書かれているので読むのが難しい。近隣の小学5年生が暗唱するという話に感心しきり。碑の裏側には、利用方法や入園の心得が細かく定められているとのこと。(漢文ではね・・・)
一般領民は決められた日のみの入園が許され、当時としては画期的で、斉昭公は80歳以上の諸士、90歳以上の藩内の庶民の老人を招いて、好文亭内で作歌、作詩などをして楽しんだという。当時も結構長生きしたんだの声。
見晴らし広場の南端の突き出た所が仙奕台(せんえきだい)で、当時の琴石、石の碁盤、将棋盤等が据えられて
いる。奕は囲碁を意味し、四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋などを楽しんだ所と解説文にあり、千波湖を眺めながら琴を弾き、碁将棋に興じて慰楽の場としたのだという。
写真7.<仙奕台の解説> <石の碁盤><将棋盤>(かすかにマス目の線が見える)
ところで、開園当時の梅は小石川後楽園で密かに7年間育てられ移植されたという話で、ここでガイドさんと別れて、記念撮影。
写真8.<貴重な満開に近い梅の前で>
写真9.<偕楽橋を渡って千波公園に向かう>
オムライスはレトロ調で量が少々もの足らなかったとか。
この千波湖畔には白鳥、鴨、鳩、黒い鴨ほどの鳥(オオバン?)が今の時期は特に多く、餌をくれよと近よってくる。特に、白鳥は人懐こく寄ってきた。
13:20頃に徳川ミュージアムへ向けて出発、南向きの地形のためか偕楽園より開花が進んでいる窈窕(ようちょう)
梅林から、梅郷橋を渡って近道となる階段を上って、徳川ミュージアムに着いた。
徳川ミュージアム
写真10.<徳川ミュージアム入り口><手前はエントランスルーム> 入場券の一部分(実物は意外に大きかった光圀公の黒地葵紋金蒔絵印籠)
徳川ミュージアム(2011年4月まで彰考館徳川博物館)は、水戸徳川家13代当主の徳川圀順(くにゆき)公爵が1967年に創立した公益財団法人徳川ミュージアムが運営する私立博物館で、現在は15代目の徳川斉正氏が理事長である。ここには徳川家康の遺品を中心に、印籠でおなじみの2代光圀が『大日本史』編さんのため諸国より集めた貴重な文書・書画、「新田」「玉堂」といった伝来の名物茶器、狩野探幽・円山応挙・横山大観ら日本絵画史に名を残す画家による名画など約6万点を所蔵していると説明にある。水戸徳川家三代綱條公の五男・金松君のために新調された子供用の具足「金小札緋威童具足 金松君所用」など歴代藩主やその子らの武具の数々も見ることができる。
今は企画展「開校・彰考館」プロジェクト新春特別展「諸物會要の世界Ⅶ-偕楽園で遊ぶ-」を開催中で、常設展示では水戸徳川家や水戸藩の250年の歴史を見ることができた。
予定よりかなり遅れたので、保和苑はスキップすることにして、徳川ミュージアムを後にした。ミュージアム北側のもみじ谷から梅桜橋を渡って、イベント会場偕楽園西門催し物広場の水戸の台所で休憩。さてと弘道館へのバス乗り場の思案中に、偕楽園駅で降りる際にもらった水戸駅まで乗車無料のチラシで乗車する提案があり、幸運にも偕楽園駅15:24発の最終で水戸駅から弘道館へ向かうことができ、1人は傘を受け取りに勝田駅まで行くこともできた。
弘道館
弘道館には15:45頃に着く、ここも70歳以上は無料だ。弘道館は東日本大震災で大きな被害を受け、お金の工面に相当時間がかかって3年かけて昨年3月末に復旧したそうだ。去年なら庭園だけの開放だったとのこと。
弘道館は水戸藩の藩校として、第9代藩主 徳川斉昭が藤田東湖や会沢正志斎などの学者の意見を聞いて1841年(天保12年)に創設。藩士に文武両道の修練をつませようと武芸、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた。敷地は54,070坪(約178,400平方メートル)で、金沢の明倫堂(17,000坪)などと比較して3倍以上で、当時の藩校としては国内最大規模(現在の敷地は34,167平方メートルと当時の5分の1)である。第15代将軍慶喜が父・斉昭の厳しい教育方針により5歳の時から弘道館で英才教育を受け、慶応3年(1867年)大政奉還の後に謹慎した至善堂もある。敷地内の施設は明治元年(1868)の弘道館の戦いで、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失。城内の建物のみならず、多くの貴重な蔵書も焼失し、正庁玄関には当時の弾痕がいまも残っているのを見た。また、1945年(昭和20年)の戦災によっても多くのものが失われたそうだが、正門と正庁、至善堂は今も昔の姿を留めている。
写真11.
写真12.
傘を受け取りに行った人とは途中で無事合流した。ところで、正庁・至善堂などの学問を学ぶ本館では靴を脱いで見学するが、移動するうちに足の裏から体が冷えて、逃げ出した人も何人かいた。ガイドさんは足の裏にホッカロンを貼り付けているという。施設全体は1時間ではとても回りきらないようだが、体がすっかり冷えきったので、ここでの梅見もそこそこに、西のフグ鍋、東のアンコウ鍋といわれるアンコウで暖まるべく、水戸城跡地に建つ立派な白壁の3階建ての小学校を右手に見ながら三の丸のT字路を左に折れ銀杏坂へと急いだ。
会食
写真13.<アンコウづくしに舌鼓を打った面々>
前回までと違ってスタンプラリーのような目標達成に急ぐこともなく、行程に余裕があったのだが意外と歩いていて、人によって歩数に差があるものの17,000から19,000歩であった。気にしていた天候は、常磐神社でほんのパラパラときたものの運の強さが勝ち、予報に反して傘をさす場面もなく、日帰り旅行会は8回の催行で8勝無敗という戦績も肴に、楽しい1日を過ごした。
◇東京40会「日本の原風景遺産巡り」梅の名所偕楽園と水戸歴史散策
・日 時 :2015年2月22日(日)10:00〜19:40
・集合場所 :JR偕楽園(臨時停車)駅前
・天 候 :曇り
・参 加 者 :11人
・コ ー ス:JR偕楽園駅⇒常磐神社⇒偕楽園内散策(好文亭、吐玉泉など)⇒千波湖(昼食)
光圀公像⇒徳川ミュージアム⇒偕楽園西門催し物広場⇒JR偕楽園駅⇒JR水戸駅⇒弘道館⇒会食
文責 中段 和宏
写真 小川、中段
日本の原風景遺産巡り<2月コース> あとがき(水戸藩と家康公に想う)
今回訪ねた水戸藩はいうまでもなく徳川御三家の一翼を担う大藩であり、政治・文教両面で諸藩を代表する格式を誇ります。
一日コースではありましたが、世界最大の都市公園(偕楽園・千波湖周辺群)、総合大学のルーツ弘道館など徳川家ゆかりの歴史・文化遺産に触れることができ、新たに見聞を広めることもできました。気がつけば「太平の世」の礎を築いた家康公没後400年の記念年、ゆかりの地を訪ねるツアーも目にします。やや時代は遡りますが、戦国武将としての家康公の一面を当時の三英傑の星取表で振り返ってみるのも興味深いものがあります。
▽家康公 51戦31勝13敗7分(享年75歳)
▽信長公 68戦49勝15敗4分(享年49歳)
▽秀吉公 53戦45勝 3敗5分(享年62歳)出所:デアコステイーニ・ジャパンデーターによれば勝率は他の武将程ではありません。
20〜30代前半に負け戦が目立つようです。 恵まれた忠臣と、武運を味方に十数年後に歴史に名を残すことになるのを誰が予見できたのでしょう?「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭(兜)と本多平八(後の忠勝)」と揶揄されたその舞台とは…。
一言坂で武田軍に大敗し撤退を余儀なくされた家康軍のスイーパー忠勝は万事休し、敵への突進という最後の手段、武田軍の小杉左近があえてさりげなく退路を譲ったという。忠勝は左近に「武士の情けを知ったる者とお見受け申す。尊名をお聞かせ下され!」と呼びかけ「小杉左近と申す乱心者、気の変わらぬうちに行きなされ!」と答えたという。(家康31歳、信玄52歳、文献多数)
それにしても、当時信玄公との間にこれ程の力量の差があったとは…。舞台劇を見るような武士道精神は心の世界遺産として語り継がれているのでしょう。
尚、家康公は後になって信玄公を師とし、武田家遺臣の多くを家臣に向かい入れています。加えて、五男に武田の名字を与え武田信吉と名乗らせ、水戸藩を治め武田遺臣をまとめて武田家再興に尽力したといいます。信吉公の早世惜しまれます。(受け売りの乱筆ご容赦の程)
因みに40会の戦績は、、、
▽8戦8勝無敗となっています。
えっ!何のことかって…。日帰り旅行会催行日当日の快適指数を問うたデーターなのです。従って雨天など天変地変は負けとなります。当会は自然との共生を大切にしているのを忘れないでください。
(世話人)