旧白洲邸・旧吉田邸 見聞散策
平成29年12月17日(日) 小田急小田原線 鶴川駅 北口AM11:00集合。
紳士10名に淑女2名、快晴の微寒風の中、約15分のランブリングで旧白洲邸「武相荘」、
i.e. "無愛想"に到着。そこは70年前へタイムスリップした別世界でした。
冬枯れの木立の中に、ひっそりと佇む百姓家と、梢に残った柿の実の赤さ、澄み切った蒼天、
おだやかな陽光は忘れていた懐かしい安らぎを想起させてくれました。
白洲次郎は、日本軍が満州に続いて中国全土を占領しようかと破竹の勢いの時、
近い将来食糧不足になる事、東京一円が空爆される事を予測して、
「正子、オレ、百姓をやろうと思うんだ」と宣言し、1年がかりでこの田畑付きの家を見つけ、
2年かけて老朽を手直し、昭和17年4月、東京に初めて空爆があった時に
即、疎開して以来一度も、引っ越していません。
室内に入ると、最初に目に留まったのが、次郎が毎日のように正子に送ったラブレターの一つ
「正子、君は私にとって霊感の泉であり、究極の理想だ。ジョン"次郎のこと"」でした。
アメリカ留学から帰国した正子には縁談話が降るようにありましたが"25歳結婚宣言"し、
見向きもしなかったのに、不意に兄から紹介された次郎と、目と目があった瞬間、双方とも一目惚れし、
翌年結婚(正子19歳、次郎27歳)、死を迎えるまで夫婦仲は良かったと言います。
ハンサムで、一本気で、ダンディな次郎はどこでも女性達に大もてでしたが、いつもさりげなく、
浮いた話はありません。彼は真にフェミニストだったと思います。
エッセイスト白洲正子の書斎は書物に囲まれた狭く質素な和室で、
大きな窓に向かって置かれた小さな座卓は、晩年をそこで過ごした正子を想像すると、
何故か健気に思えました。
次郎は"プリンシプル(生き方の大原則)を大事にし、筋の通らない話には
相手が誰であろうと一歩も引かず、俗に言う硬派の典型でした。
新憲法草案作成に於いても「戦争に負けたが奴隷になったのではない」と、
GHQの巨大な圧力に壮絶な戦いを挑み、「従順ならざる唯一の日本人」と嘆かせ、
長い消耗戦を展開しました。
次郎はまた、権力や私利、名誉といったものには全く興味がなく、
ひたすら"プリンシプル"を貫き通しました。
吉田茂はそんな次郎を高く評価しており、次郎もまた、権威をものともしない吉田の硬骨漢ぶり、
鋭敏な時代感覚、冷静な筋の通った考え方、こうと思ったら譲らない頑固さ、すべてが好もしかった。
以来、次郎は吉田の為に働くことを決意し、吉田も次郎を重用し、困難な交渉事はすべて任せ、
次郎もよくそれに答えた。
吉田に対する国民の評価は歴代首相中、別格の高さを誇っている。
その功績の一端は間違いなく次郎に帰せられるだろう。
大宅壮一は次郎のことを"吉田が富士なら、白洲は宝永山だ"と表現し、
次郎は吉田にとって"唯一の腹心だった"と述べている。
彼らは文字通りの"一心同体""二人三脚"で日本の復興に力の限りを尽くしたと言えるでしょう。
さて、昼食は周辺に適当な食事処もないことから、旧白洲邸の納屋を改造したと言うレストランで
散策中に食事の用意をお願いすることとし、12名と多いので全員同じものが良いだろうと
オムライスを注文しましたが、時間がかかるからと、カレーライスに変更を余儀なくされ、
"これで2,300円は高すぎるだろう"と紳士達から不評続出でした。 次郎はどう見るのでしょうか?
食事後、庭で小さな椿論争がありました。
その白い花は形から"椿だろう"となりましたが、
私が昔、住んだ家の玄関脇に植えた白いサザンカとそっくりでしたので
"山茶花では"と言ってみましたが、「イヤ椿だよ」と一蹴され、私も自信がなかったので、
椿ということで決着し、その場を離れようとしたその時、それまで黙っていたN氏が
ぽつりと「椿ではないよ、山茶花だよ」と言いましたが歩き出した皆には聞こえず、
私が振り返ると「椿は散る時、萼を残して花ごと落下する。地上には花びらしかないだろう。
だからこの木は山茶花だよ」と、いつも無口で奥ゆかしいN氏らしいと感じました。
40会で野山を散策する時、知らない木々や草花を見つけると、私は、男性ではN氏に、
女性ではH氏に教示をいただいています。
一行は次の目的地、旧吉田邸に行く為、鶴川駅に戻り大磯を目指すことになりました。
途中、相模大野駅で小田急江ノ島線に乗りかえ待ちをしていた時、淑女1名が合流し、
藤沢駅でJRに乗り換えて大磯駅下車、そこで紳士2名、淑女2名と合流し、
計17名の参加となりました。
旧吉田邸へ向かう途中、新島先生終焉の地(百足屋旅館跡地)を詣でに歩き出した時、
ハプニングが起きました。
いつも元気でにぎやかなM氏(今回は途中寒がり、不調でした)が、
ついにダウンし帰ると言い出しました。
地元のF氏が心配し、とりあえず、私と大磯駅まで同行しましたが、様子が尋常ではなく、
私が彼の自宅まで付添うと言いましたが、あまりに遠慮するので冗談で
「気にするな!貴方を送り届ければ、今回の紀行文は他の人に頼めるから」と言った途端、
「オレはそういうの絶対に許さん」と怒り出し、裏目に出ましたが気のせいか、
いくらか元気になったようです。
温かいお茶を飲み、F氏からも差し入れをもらい、意地でもと一人で帰って行きました。
後日談ですが、大磯での強烈な腹痛は実は胆石のためで、
胆管に石が詰まって起きたとの事、昨年の暮れに同じような腹痛が起きて、
入院して判明し取り去り、今は小康を保っていますが、
1月下旬には再入院して胆のうを摘出するとの事です。
お互い後期高齢者ですから、どんな病が潜んでいても不思議はありません。
心して、余生、否、与えられた生を大切に燃焼し尽くしたいと思います。
さて、F氏と私は皆に追いつく為、タクシーで旧吉田邸に参じました。
一国の宰相にふさわしい豪壮な邸宅で3万6千坪の広大な敷地に、山あり日本庭園ありで、
西湘バイパスが通る前は自宅から相模湾まで歩いて行けたとの事です。
吉田は富士山が大好きで死の前日も2階の寝室のベッドの上に座りながら、
あきもせずに眺めていたとの事です。
89歳の大往生で生前の功績を称え国葬となり、大磯の自宅から武道館の入口まで
沿道を人々が埋め尽くし、葬儀には皇太子夫婦や外国使節ら、5,700人が参列したとの事です。
次郎は部屋にこもり静かに二人の来し方を振り返り供養したとあります。
吉田の死後、次郎は形見として革張りのソファーを譲り受け、それを武相荘に置き、
吉田を偲ぶよすがにしました。
次郎にとって、吉田は父であり、師であり、戦友であると共に、
比類なき愛を注ぎ続けた懸想人であった。
次郎は吉田を通して夢を実現できたのであると、
北 康利は『白洲次郎,占領を背負った男』に記しています。
PM5:00より、近くの楽市楽座で、にぎやかな忘年会をやり、PM7:30頃大磯駅で解散となりました。
40会の数々の集いは、企画する方々の熱意のお陰で毎回楽しく、
充実感をいただき感謝を致しております。
願わくば、参加者全員がいつまでも元気で、乞う!再見。
記:小坂秀徳
写真提供:宮野、中段