第181回 晩秋の駒込・千駄木・根津界隈を歩く
日 時: 平成30年11月22日(木)10時~15時
集合場所: JR山手線駒込駅
天 候: 曇り
参加人数: 30名(?)
案内人 : 因幡(37商) サポーター:高瀬(39経)小林(43法)古暮(43女子大)
歩行距離: 6Km
コース: 駒込駅北口 染井吉野記念公園⇒ 六義園⇒ 東洋文庫⇒ 文京グリーンコート
(昼食) 吉祥寺⇒ 高村光太郎旧居跡⇒ 宮本百合子ゆかりの地⇒ 旧安田邸
⇒ 青踏社跡⇒ 森鴎外記念館⇒ 夏目漱石旧居跡(猫の家)⇒ 根津神社
当日は曇天ながら比較的暖かく、染井吉野記念公園で点呼、準備体操の後スタートした。
① 六義園
元禄8年(1695年)、五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主柳沢吉保が、
下屋敷として与えられた駒込の地に、7年の歳月をかけて築園したもの。
吉保の和歌の趣味を反映した江戸時代の代表的な「回遊式築山泉水」の大名庭園。
明治時代に入って三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となった。
その後、昭和13年に岩崎家から東京市に寄付された。
昭和28年に国の特別名勝に指定された貴重な文化財。
11時からのガイド説明の前にひと周り散策し、園内の黄葉・紅葉を楽しんだ。
② 東洋文庫
六義園と東洋文庫は共に三菱三代社長の岩崎久弥から寄付された。
大正6年(1917年)岩崎久弥が中華民国政治顧問のG.Eモリソンの蔵書を購入、
大正13年に財団法人東洋文庫を設立した。
日本最古・最大の東洋学の研究図書館で蔵書は100万冊。
今回は入館しませんでしたが、後日、是非ご覧になることをお薦めした。
③ 文京グリーンコートの食事処でランチタイムとした。
④ 吉祥寺
室町時代(1458年)に創建された曹洞宗のお寺。
江戸期には境内に後の駒澤大学となる「せん檀林」が作られ、
幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。
多くの学寮・寮舎を備え、常時1,000人の学僧がいた。
二宮尊徳、榎本武揚、川上眉山らの墓碑がある。
武蔵野の吉祥寺との関係。
吉祥寺はもともと江戸城の西の丸にあったが、家康の関東入府に伴って駿河台に移った。
1658年の明暦の大火によって寺は残ったが門前町の人々は居を失う。
吉祥寺の浪士らが土着の百姓と協力して、現在の武蔵野市一帯を開墾して、
吉祥寺門前の町人たちを移住させた。
「吉祥寺」に愛着を持っていた住人達が吉祥寺と名付けた。
一方、残った吉祥寺もその後の江戸大火によって完全焼失、
諏訪山ゆかりの地である現在の駒込の地に移転した。
⑤ 高村光太郎旧居跡
高村光雲の長男で 詩人・彫刻家として活躍。
明治44年洋画家を志す長沼智恵子と出会う。
大正3年詩集「道程」を発表、智恵子との生活を始める。
昭和16年「智恵子抄」を刊行。
この地には明治45年から空襲で焼失し花巻市へ疎開した昭和20年まで住んだ。
⑥ 青踏社跡
平塚らいてうの首唱で20代の女性5人が発起人となり、明治44年(1911年)田村俊子、
野上弥生子ら18人を社員として青踏社が結成された。
当初は詩歌が中心の女流文学集団だったが、やがて伊藤野枝が中心になり、
婦人解放運動に発展して行った。
青踏という言葉は、18世紀のイギリスで因習に反対する女性を
ブルーストッキングと呼んだことに由来。
発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は青踏の思想を象徴している。
⑦ 鴎外記念館
明治の文豪森鴎外が誕生して150年目の2012年に、改築の為休館していた
「本郷図書館鴎外記念室」が「鴎外記念館」として生まれ変わった。
文京区千駄木は鴎外がその半生を過ごした地。
記念館が建つ場所は鴎外の旧居「観潮楼」の跡地で、多くの文人たちが行き来した。
鴎外はこの地で明治25年(1892年)から亡くなる大正11年(1922年)までここで過ごした。
⑧ 夏目漱石旧居跡
漱石は明治33年(1900年)英国へ留学し明治36年(1903年)1月に帰国した。
帰国後借家探しをした漱石は、斎藤阿具という漱石の大学時代からの知り合いの家で、
当時,仙台の第二高等学校の教授であったため空き家であったこの家を借りた。
3月に転居し、4月から第一高等学校の講師となり、同時に小泉八雲の後任として
東京帝大の英文科講師を兼任した。
この家には10年前、鴎外も明治23年から25年まで住んでいた。
この家で漱石は「吾輩は猫である」を書いたが、それはその当時漱石は神経衰弱が昴じており、
心配した高浜虚子にすすめられて神経を静めるために「ホトトギス」書いたと言われている。
明治39年(1890年)12月、本郷区西片に移るまでこの家に住んだ。
この家は現在、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
⑨ 根津神社
日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝わる古社。現在の社殿は宝永3年(1706年)の創建。
江戸幕府五代将軍徳川綱吉が養嗣子六代将軍家宣のために屋敷地を献納して、
「天下普請」と言われる大工事で社殿が造営された。
権現造り(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作といわれ、
社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。
鴎外の「青年」、漱石の「道草」など多くの文学作品では「根津権現」として出てくる。
境内の黄葉・紅葉は見事な晩秋の錦絵であり、集合写真に収めた後、解散となった。
(37商 因幡一男)