第170回 不忍池から本郷・湯島界隈を歩く
日 時: 平成29年11月21日(火)10時
集合場所: JR上野駅 公園口
天 候: 晴れ
参加人数: 32名
歩行距離: 約6km
案内人 : リーダー 因幡(37商)
サポーター 駒田(43工) 高瀬(39経) 郷農(38文)
コース : 東京文化会館前⇒公園入り口(点呼)⇒西郷銅像・彰義隊墓所⇒清水観音堂
⇒不忍池弁天堂⇒無縁坂⇒三菱史料館⇒東京大学竜岡門⇒学食(昼食)
安田講堂前集合⇒春日門出口⇒中央会堂⇒麟祥院⇒湯島天神
⇒サッカーミュージアム⇒おりがみ会館⇒湯島聖堂⇒JR御茶ノ水駅聖橋口 (解散)
12月並の気温ではあったが快晴に恵まれ絶好の歩こう会日和。
黄葉・紅葉を楽しみながら上野・本郷・湯島界隈を歩いた。
美術館めぐりなどで上野には来ても西郷さんをじっくり見ることは案外少ない、
ということで西郷銅像と彰義隊の墓所からスタートした。
江戸から明治への時代の転換の舞台となった史跡をたどった。
江戸幕府は西の比叡山延暦寺に対応させてこの地に寛永寺を中心に数多くの社寺を建立したが、
その中のひとつの清水観音堂から琵琶湖に見立てた不忍池、
竹生島に見立てた弁天島などを「メガネの松」から眺めた。
また前月の歩こう会で府中競馬場を見学したが、この不忍池でも明治16年から24年まで、
池を周回する競馬場で明治天皇臨席のもとで競馬が行われたという。
池の中道を渡って左手に旧岩崎邸の石塀に沿って無縁坂を上がった。
ここは森鴎外の「雁」の中で医学生岡田青年と高利貸し末造の妾お玉との淡い交情を描いた舞台。
なんとなくそのような風情が感じられる坂道である。
無縁坂から岩崎邸の裏手の白壁沿いに進み閑静なたたずまいの中にある三菱史料館に入る。
岩崎弥太郎による三菱発展の貴重な史料や産業史・経営史の展示を見学した。
午前の部の最後は竜岡門から東大本郷キャンパスへ。皇族の東大病院への通過門。
キャンパス内はまさに黄葉、紅葉の錦模様。昼食を摂りに学食に急いだ。
幸いにもほぼ全員が着席でき久々に学食の廉価メニューを味わった。
午後の部は安田講堂前での集合写真撮りからスタートした。
法文館、文学部館、弓道場、医学部館、産学連携プラザのルートを通って
春日門から出門、春日通り出る。
出たところで正面に中央会堂を眺める。
明治23年カナダのメソジスト派による創建で、野口英世、内村鑑三も訪れていたという。
また漱石の「三四郎」で美禰子と三四郎の別れの舞台ともなった。
春日通りをしばらく行き麟祥院へ。「からたち寺」とも言われている。
将軍家光の乳母 春日局の墓所である。
大きな墓石の上部には円い穴があいている。
これは「死後も江戸の 政治を見守れる墓を作ってほしい」という遺言によると伝えられている。
またここは明治20年に井上了円が境内の一棟を借りて東洋大学の前身である「哲学館」を創立した。
そのため「東洋大学発祥之地」でもあり、碑も建てられている。
春日通りを少し下って湯島天神へ。
丁度菊祭りが行なわれていて境内は菊人形など菊の 香りと参拝の人で賑わっていた。
湯島台地を下ってサッカーミュージアムへ。
サッカーの殿堂にしては少し淋しげな日本サッカー協会の本部であった。
本郷通り下っておりがみ会館へ。
(株)ゆしまの小林の初代が襖師、表具師として上野寛永寺の仕事を通して和紙技術を習得し
「染め紙業」を始めたのが安政5年(1858年)。
160年の歴史を刻んでいる。たかが折り紙、されど折り紙。
1枚の紙が創り出す世界は不思議な魅力を生み出している。
コースの最後は湯島聖堂。
上野忍岡にあった林羅山邸内の孔子廟を5代将軍綱吉によって湯島に移され規模を大きくしたもの。
1797年、その隣に幕府直轄の昌平坂学問所が開設された。
「昌平」とは孔子の生まれた村の名前で「孔子の諸説、儒学を教える学校」であった。
明治以降、湯島聖堂の構内に文部省、博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)、
東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が
一時同居していたこともあった。
聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は昭和50年台北ライオンズクラブから
寄贈されたものである。
予定のコースを歩き終え15時にJR御茶ノ水駅聖橋口に到着。
最後まで晴天に恵まれ、約6kmの上野・本郷・湯島界隈の晩秋を楽しんだ一日であった。
(因幡記)