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第192回 歩こう会 小石川後楽園界隈・光と影の変遷をたどる

第192回 歩こう会 小石川後楽園界隈・光と影の変遷をたどる

 

日  時: 令和1年11月26日(火) 10時~14時30分
集合場所: 東京メトロ丸の内線 後楽園駅
天  候: 曇り
参加人数: 23名
案内人 : 因幡(37商) サポーター:駒田(43工) 宇野(53商) 成瀬(43商)
歩行距離: 5km

コース : 文京区役所シビックセンター展望ラウンジ ⇒ 礫川公園 ①東京都戦没者霊苑
      ②展示室 ③陸軍砲兵工廠 諸工伝習者跡記念碑 ④鉄砲試射試験
      試験場トンネル入り口 ⇒ 野球選手戦没者鎮魂の碑 ⇒ 砲兵工廠跡の
      基礎煉瓦 ⇒ 甲武鉄道飯田町駅跡 ⇒ 飯田橋アイガーデンテラスにて
      昼食 ⇒ 小石川後楽園  解散

 

当日は最高気温が10度、時折雨の降る生憎の天候であったが 点呼の後スタートした。

 

今回は、今でこそ行楽客で賑わう後楽園であるが、
歴史を遡れば江戸時代は水戸徳川家の上屋敷で、
明治以降は軍用地としての暗い歴史が続いた。
その残像はこのあたり一帯で随所に見られる。
今回の歩こう会ではこの小石川後楽園界隈の光と影の変遷をたどった。

 

①  文京区役所シビックセンター25階の展望ラウンジから今日歩くところを俯瞰した。

 

②  このあと礫川(れきせん)公園に隣接する東京都戦没者霊苑へ。
  先の大戦で亡くなった16万人の霊が祀られている。
  この公園と周辺一帯は江戸時代は水戸藩の上屋敷だった。
  明治の版籍奉還後は軍用地となり年々規模は増大、
  昭和10年まで陸軍東京砲兵工廠として操業が続いた。
  その残像を砲兵工科学校跡碑、諸工伝習所跡記念碑で
  またここで大量に製造された歩兵銃の試射試験場となった230mの
  地下トンネルの煉瓦作りの入り口を見ることで暗い歴史を重ねた足跡を垣間見た。

 

 

 

③ 続いて野球選手の戦没者鎮魂の碑へ。
  巨人の沢村栄治(陸軍伍長で戦死)ら73名の名前が刻まれている。

 

 

④ 東京砲兵工廠跡の基礎用煉瓦
  2000年のドームホテル建設の際に地下5mから出土した砲兵工廠の
  基礎用煉瓦の一部が展示されているところを見学した。

 

 

  ではここで製造された兵器は一体どこからどのようにして
  各地の軍事基地に運ばれたのかを辿った。

 

④ 後楽園エリアから一旦出て小石川橋を渡り飯田橋エリアに移動。
  このあたりは今では全くその面影はないが、明治22年に八王子―新宿間に
  開業した甲武鉄道が28年に飯田町まで延線、飯田町駅が開業、始発駅となった。
  ここから各地の練兵場に兵器が輸送された。
  明治39年には国有化され、大正13年の関東大震災後に現在の飯田橋駅の開業に伴い
  飯田町駅は貨物専用駅になったがその後廃止された。

 

  飯田橋アイガーデンテラスの3階にある飯田町駅の始発駅を示す
  「ゼロポスト」標識を見定めた。

 

⑤ 昼食はアイガーデンテラス内のレストランでそれぞれ摂った。
⑥ 午後は小石川後楽園へ。
  寛永6年(1629年)初代水戸藩主徳川頼房が上屋敷に着工した庭園で、
  完成は二代光圀(水戸の黄門様)の時、
  光圀が招聘した明の儒学者朱舜水の意見を取り入れ、
  中国の風物を造園に反映させたのが特徴。大泉水を中心にする回遊式庭園で、
  小蘆山や西湖堤、円月橋など中国の名所を模した景観が随所に登場。
  大泉水の中に浮かぶ蓬莱島も風情がある。国の特別史跡、特別名勝。

 

  「後楽園」の命名の出典は 「岳陽楼記」。

 

  「士はまさに 天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみは後れて楽しむべし」

 

  タイミングよく庭園案内ガイドに恵まれ
  紅葉,黄葉の絶景の下でおよそ1時間ほどの園内の散策を楽しむことが出来た。

 

 

 

14時30分 庭園の正門前で解散した。
                                (因幡 記)