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まえがき

 「東京新島研究会」は,西村四郎さん(S23経)の提案により“校祖新島襄にもっと近づこう”を目標に,2005年6月に発足した。
 第1回会合(2005年6月15日)には21人が参加,会の名称,会則などを決めた後,志村和次郎さん(S36法,群馬県出身)が新島襄についてスピーチをした。第2回以降約1年余り,本井康博著「新島襄と建学の精神」をテキストにして学び,その後は毎回,会員による研究発表のほか,同志社大学の教授や外部講師を迎えての講義を行っている。

●原則として月1回研究会を実施,
  会場は同志社大学東京オフィス
  時間はPM1:30〜PM4:00
●毎年2月例会は,2月12日新島襄生誕の地碑前祭に参加。
  また“新島襄の足蹟を訪ねる会”と協力して研究旅行を行う。
年会費(会計年度1月1日〜12月31日)2,000円
会長:西村四郎(S23経)

   登録会員:34人(2009年1月19日現在)

 詳しくは「東京新島研究会」会長西村四郎
   (?サクラクレパス03-3862-3936,
     Eメール shironishi@craypas.co.jp)
            文責:木村ケイ(S29文)
 

Dec. 24, 2009

 東京新島研究会 研究会・臨時総会・懇親会
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東京新島研究会 研究会・臨時総会・懇親会
新会長に赤松 龍さん

● 研究会例会

 2009年12月17日(木)同志社大学東京オフィスで東京新島研究会例会が開催され,神学部 本井康博教授の「新島八重について」と題する講演が行われた。以下講演要旨。

 今年はNHKやTBSのテレビ番組で新島八重が取り上げられたが,勝気な女性・進取の気性の持ち主として紹介されている。八重は会津藩で砲術師範を務めた山本家に生まれ,兄の覚馬から砲術を学んだ。会津戦争が始まると,髪を切り落として鶴ヶ城にこもった。

 NHKテレビでは,新島襄の言葉を借りて,八重のことを「決して美人ではないが,生き方の美しい女性=ハンサムウーマン」と紹介している。結婚後の八重は,新島にすすめられて洗礼を受け,当時は珍しかったアメリカの生活様式を積極的に取り入れ,京の町を洋装で闊歩してひんしゅくを買ったこともある。
 
 新島の永眠後は,篤志看護婦として日清・日露の両戦争で献身的な働きをした。八重のこうした行動は,すべて彼女自身の意思によるもので,常に自信と誇りに満ちていた。会津の女性の心意気ではなかろうか。

 「武士の心だけでなく,クリスチャンの心で生きるように」と新島に言われていたにもかかわらず,八重はクリスチャンとしてよりもむしろ会津人としてその生涯を終えたのではないかと考える。

● 臨時総会

 例会に続き,午後4時から臨時総会が開催された。議題は @会長辞任の件,A新会長選任の件,Bその他。参加24人(出席22,委任2)

 病気理由による西村四郎会長の辞任は,やむをえないとして全会一致で承認された。新会長として赤松 龍さん(28年経)が推薦され,全会一致で承認された。またに西村前会長を名誉会長とすることも賛成多数(賛成22,反対1,不明1)で承認。最後に定期総会の開催を3月とすることが提議され,賛成多数(23:1)で承認された。

● 懇親会

 臨時総会終了後,日本ビル地下のビアホールで懇親会を開き,新体制のもとで東京新島研究会を全員で支えていくことを誓い,カレッジソングを斉唱して散会した。

                  (文責 木村ケイ/高崎栄一郎)

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西村四郎さん辞任のあいさつ

赤松 龍さんのあいさつ

西村さんと本井先生(右)

カレッジソング斉唱

Dec. 2, 2009

 新島襄の足跡を訪ねて 中山道をゆく
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 「新島襄の足蹟を訪ねる会」(会長 西村四郎 S23経)は、09年9月14日と15日、総勢36人で中山道をバス旅行しました。新島先生は、明治15年(1882)7月3日に京都を発ち、大津から汽船で米原へ出、関ヶ原・中津川・妻籠を経て野尻・上松・和田を通り、7月11日に安中に到着しました。その足蹟の一部を辿りました。

 最初に「寝覚の床」を訪ねました。龍宮城から戻った浦島太郎が、この周辺の山の中に迷い込み、床岩の上で目を覚ましたと伝えられる木曽川の名勝。近くの越前屋で蕎麦をいただきました。127年前,新島先生は同行した徳富蘇峰たちと、この地で蕎麦食い競争をしました。

 寝覚の床から小野の滝、木曽の桟(かけはし)、江戸時代の宿場の風情を保つ奈良井を見学した後、下諏訪に入りました。「聴泉閣かめや」は皇女和宮も宿泊された格調高い旅館、新島襄もここに泊まりました。私達もかめやに宿泊し、その夜はもちろん懇親会で盛り上がりました。

 翌日は諏訪大社本宮に参詣し、さらに和田宿へ。和田宿の「かあちゃん家」で昼食をいただきました。メニューは新島襄も食したといわれる赤飯を特別注文。最後に海野宿で下車して散策。海野宿を去った後は、一路新宿に向かいました。

 内容豊かな、しかも楽しい2日間の旅でした。この旅行の想い出を綴った「新島襄の足蹟を訪ねて中山道をゆく」と題する24ページの冊子を作成しました。

                   (文責 高崎栄一郎 S34商)
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寝覚の床にて

寝覚の床を眺める西村会長

旅館「かめや」の外観
スケッチは板岡功男さん(S36法)

カレッジソング斉唱

和田宿本陣前

Aug. 13,2009

 新島八重の生き方を考える
    東京新島研究会 2009年7月15日発表
    場所:同志社大学東京オフイス
    発表者 高崎栄一郎(昭和34商)
 東京新島研究会会員に7人の臨時出席者を加えた22人の前で,『二人の八重さんとマザーテレサ:自己実現と自己超越』と題する研究発表を行なった。二人の八重さんとは,新島八重と井深八重である。

 この報告では新島八重(1845-1932)に焦点を絞るが,井深八重についても簡単に紹介させていただきたい。井深八重(1897-1989)は,新島八重と同じく旧会津藩の武家に生れた女性。同志社女学校専門学部を卒業後,長崎高等女学校に英語教師として赴任したが,その翌年にはハンセン病と診断された。この診断は後に誤診と判明したが,井深八重はフランス人神父が営む神山復生病院に留まって,看護婦の資格を取得して,生涯をハンセン病患者の看病に捧げた。その生き方と考え方は,会津の武家の誇りと,日本人としての自覚と,そしてキリスト教精神を強く感じさせるものである。

NHKテレビ番組『明治悪妻伝説』

 この研究発表を行なった直接的な動機は,4月22日に放映された(8月5日にも再放映)NHKの『明治悪妻伝説 初代“ハンサムウーマン”新島八重の生涯』を観て,問題意識を持ったことである。私が感じた問題意識とは,たとえば,

● 会津戦争での活躍から,「幕末のジャンヌ・ダルク」とさえ評価されている新島八重を,「鵺」(ヌエ)とは失礼ではないか?
● 新島襄の死後,日清戦争と日露戦争における看護婦としての奉仕,晩年の茶道への傾倒,仏教への関心などに見られた矛盾を含む行動の動機は何であったか?

「ハンサムウーマン」とは?

 テレビ番組で引用された新島襄の英文の手紙は,“She is not handsome at all. She is a person who does handsome.”(彼女は決してハンサムではない。しかし彼女の行いはハンサムである)とされていた。

 女性にhandsomeという形容詞を使うことができるだろうか? 『威厳のある,目鼻立ちがきりっとした美人の(主に中年以上の女性について)』と「ジーニアス英和大辞典」は説明している。研究発表の席で,handsome woman から具体的に誰を連想しますか,という私の問いに対して,デボラ・カー(Deborah Kerr, 1021-2007)と答えた人がいた。実は発表者も「地上より永久に」のデボラ・カーを連想していた。

 次のセンテンス “She is a person who does handsome.” は文法的に問題がありそうだ。なぜならばhandsomeは形容詞であって,副詞ではないからである。この疑問は,“Handsome is as handsome does.” という諺の転用だと考えれば解決する。諺の意味は,Handsome is he who does handsomely. (人の値打ちは見た目より行動で決まる)と説明されている。新島はこの諺を意識してwho does handsomeと書いたに違いない。新島襄の英文でもうひとつ注意したいのが,She is a woman who does … ではなく,She is a person who does … と,性差別のないpersonを使っていることである。

マズローの欲求段階説

 米国の心理学者アブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow, 1908-1970)は,「欲望5段階」説を提唱した。5段階の欲望とは,
@ 生理的欲求:生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的な欲求
A 安全欲求:衣類・住居など,安定・安全に得ようとする欲求
B 所属欲求・愛情欲求:集団に属したい,誰かに愛されたいなどの欲求 
C 尊敬欲求:自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める欲求
D 自己実現の欲求:個人の才能,能力,潜在性などを充分に開発,利用したいという欲求。さらに人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 マズローは,D自己実現こそ人生の最高の目的であり,人間が最も人間的である所以とは,自己実現を求める願望にある,と強調している。私見であるが,自己実現とは,自分がやりたいことをやること。ただしやりたいこととは,自分のためであっても,他人のためであっても,社会のためであっても,崇高な目的を持たなければならない。自分の価値を認められたいとか,尊敬されたいというのは,第4段階の「尊敬欲求」にすぎない。 

新島八重と自己実現

 NHKの解説では,八重さんは「生涯自分の可能性に挑み続けたのかもしれない」と述べている。会津戦争での戦いぶり,「鵺」と言われても「烈婦」と言われても動じない心,日清・日露戦争での看護婦としての奉仕,茶道への傾倒,仏教への関心,そして晩年に学生たちに見せた優しさ,などを考え合わせると,NHKの解説は当を得ているのではあるまいか。

 自己実現を果たした人の特徴として,マズローは次の項目を挙げている。新島八重がこれらの項目に照らして,自己実現を求めた人であったかどうか,考えてみよう。

自己実現を果たした人の特徴

  (a)客観的で正確な判断
  (b)自己受容と他者受容
  (c)純真で自然な自発性
  (d)創造性の発揮
  (e)民主的性格
  (f)文化に対する依存の低さ(文化の超越)
  (g)二元性の超越(利己的かつ利他的,理性的かつ本能的)

 新島八重は,少なくとも(c)(d)(e)(f)(g)の資質を発揮している。すなわち自己実現への志向の強い,あるいは自己実現を一部果たした人であったと考える。

 晩年,マズローは「自己実現の欲求」のさらに高次に「自己超越の欲求」があるとした。自己超越の人として,マザーテレサがしばしば引用されている。

Mar. 20,2009

 東京新島研究会 西村四郎会長 新島研究功績賞を受賞
 
 2月13日 新島会館にて開催された「新島襄生誕記念祭」において 東京新島研究会会長 西村四郎さんが「新島研究功績賞」を受賞されました。

 毎年この記念祭では 前年度の同志社内外の諸先生および学生生徒などの新島研究に対する優秀な論文発表に対して表彰されることがほとんどですが 今回 西村さんの受賞は 長年の新島研究の裾野を広められた功績によるもので 賞状には 『あなたは、同志社校友会東京支部長として 東京における新島襄生誕記念碑前祭を主催され、さらに会長として「新島先生の足蹟を訪ねる会」や「東京新島研究会」の発足、運営に貢献されるなど、新島襄の研究と顕彰に大いに尽力されました』 と記載されていました。

 受賞インタビューの中で西村さんは 「今後の活動として 東京地区内の新島の足蹟をこまめに研究し訪問することや 来年か再来年 ヨーロッパへ行って 新島先生が亡くなられそうになったスイスのサン・ゴタール 先生が湯治されたと言うドイツのヴィーズバーデンにまで足を伸ばしたい」 と84歳のお歳を感じさせない若さで披露され 大きな拍手を受けました。

             記事:林 裕三(S42工)

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Feb. 05,2009

 同志社は「此処」から始まった
新島襄の足蹟を訪ねてニューイングランドへ 2008年9月5日〜9月12
            平岡敏雄(昭和30商)

 200897日。我々東京新島研究会員による「新島襄の足蹟を訪ねる会」で今回は従来国内(安中、函館、奈良吉野、備中高梁、会津若松及び生誕地東京神田と終焉地大磯)の新島嚢の足跡を尋ねて、その都度、感動を重ねてきたが、これらの研究活動の原点と云うべき、ボストンを中心としたニューイングランド地方に於ける多くの若き日の新島襄を培った足跡を尋ねる事となり、その第一段階としてカナダと国境を接するバーモント州ラットランド・グレース教会の訪問となった。

 時、恰も日曜礼拝に我々も参列出来る聖餐式に接すると共に牧師より西村団長と本井教授に暖かい歓迎の辞と記念品が贈呈され、感動の一場面となった。

 想い巡らせば134年前の1874109日 第65回アメリカン・ボードの年会開催の時 目の前の同じ演台で新島襄が伝道主体の年会の中にあって「反則行為」にもなりかねない異例のスピーチで「日本にキリスト教主義学校のために募金を!!」と訴え、感激した会衆の数々の献金、中でも帰りの汽車賃を自分は歩いて帰るからと2ドル全額、差し出した貧しい老農夫(福本武久原作「新島襄とその妻」のテレビドラマでは黒人の老農夫が登場して居り 如何に新島襄のスピーチが熱いものであったか )と会場の外で新島を待ち受けそっと差し出した寡婦の2ドルに 新島襄が後日一番感動したと語っている。これらが今日30万余の同志社人を輩出した源であり今迄研究成果として認識して来たラットランドのアッピールを今茲にその熱演した演台を眼前にした時、熱いものが込み上げて来て、同志杜は正に「此処」から始まったのだとの実感で、アメリカ人でさえも、あまり訪れる事の少ないラットランドまで来た感激一入の思いは参加者31名全員の共通の思いであったと思われる。

 今回の「足蹟を辿る旅」に参加した一番の動機としては 予てから「校祖新島襄」を真に理解し、尊敬することは単なる歴史上の人物像 即ち書物上の人物として捉えるのではなく幕藩体制の下での一個人としての在りの儘の人間像を観るべきとの思いから、国内各地での「足跡の場所」に自分自身が立って往時の新島襄を想い巡らす時、新島襄の命を賭けたその行動力と勇気の偉大さに比べ、自分の無気力感に嘖(さいな)まれること数々(しばしば)であった。特に函館に於ける福士卯之吉の手引きにより沖に停泊するアメリカ商船ベルリン号への乗船のため岸辺より小舟に乗り込む時の心境は如何ばかりかと推察する時、己が21歳の時を見つめ直した時、あらためて、新島襄の人間の大きさに驚嘆、頻りである。斯様に国内各地を巡って実感した結果、是非ともその精神的支柱を育み、源流となっているニューイングランド地方を見聞きしてみたいと強く思う様になり、喜んで参加させてもらった次第である。この強い思いを先ず叶えてくれたのが、先述のグレース教会の新島襄が強く訴えた演台の前に同志杜人の一人として立ち讃美歌が流れる中 瞑想に耽る。伝えられるところでは 訴えの当初は壇上では膝がどうしようもなく震え 涙で何度も絶句したが、それでも献金のアッピールを必死で会衆に訴え、その場の人々にとっても、予期せぬ不意打ちで、アメリカン・ボードの主事たちも「狼狽を隠し切れなかった」といわれているが、けれども新島襄の願いは通じ「千ドル」「5百ドル」と声が上がり、それらの多額の予約と共に先述の老農夫・寡婦の各々の2ドルの献金となった。これらの事実を回想する時、134年前の会衆の暖かい声と強いメッセージが今茲に聞こえてくる様で同志社人としての感謝の気持ちとお礼の気持ちで万感胸に迫るものとなる。

 斯様に数々の感動のシーンを体験し、新島襄の出身大学アーモスト大学、中でも第二次大戦中も敵国人であるにも拘わらず、はずすことがなかった新島襄の肖像画がかかるジョンソンチャペルで往時の新島に思いを馳せる。

 数々の由緒あるニューイングランドの趣を色濃く残す場所を歴訪、その中でも、特に今回の参加理由の大きな目的の一つとしてボストン・ビーコンヒルに現存する旧ハーディー邸である。予てから密航者であり、身許不明の東洋人である新島襄を何故 ハーディー夫妻は面倒をみることになったのか、といつも素朴な疑間を抱いていたので、是非ハーディー邸の由緒あるものに接することに基き 解答を実感して見たいとの願望から参加となり、今茲に旧ハーディー邸の前に立ち、又、コングリゲーショナルハウスのハーディー氏の胸像に接し、往時の状況を顧みる時、1年余の航海後、ボストン入港、そうして上陸許可となったのは新島襄の渾身の力作の心情書「なぜ私は目本を脱出したのか」がハーディー氏の心を揺さぶったのは大きな原因と思われるがそれに況(ま)しても、ワイルド・ローバー号のティラー船長の助言、推せんが決定的な要因と言われている。即ちティラー船長は長い一年余の起居を共にした中で、新島襄の陰日向のないその行動と強い向学心にすっかり魅了させられたのだろう。俗に言う荒くれ水夫達の中で言語も不便、生活様式の異なる中で、又船中と言う特殊世界の中での生活は言語に絶するものと思われるが、その中での誠実で真摯な態度が、ティラー船長の助言となったことは想像に難くない。斯様にボストンの地に在って、人生何処にあっても陰日向があってはならない教訓を噛みしめる。言い換えれば今回の旅は残された自分史の行動指針でもある。即ち新島襄の真摯な態度がハーディー氏の心を捉え 引いては今日の同志杜へと繋がっていったものであると確信する。

 最後にニューイングランドの出発点となったボストン郊外のプリムス・プランティーションを見学。1620年にイギリスよりメイフラワー号で渡って来た102名のピューリタンによってアメリカ建国の出発点となったところであり、その後の独立戦争を経て1776年に母国イングランドから独立宣言がなされ「良心と自由の民主主義」アメリカの建国となり そのピューリタニズムの伝統がニューイングランドで開花しアメリカン・ボードにより益々発展し今日に至って居り、従ってプリムス訪問は旅の終わりとしては最も相応しいものであった。

 まだまだ書き残した各地での感動のシーンは枚挙にいとまないが、ペンを置くに当って参加者の中には初対面の方も多くおられたが 同志杜と言う絆の元に数々の感動を共有出来た事に感謝し、この素晴らしい同志杜で学ぶ機会を薦めて貰った今は亡き高校の恩師大野先生(同志社高商卒)に感謝の念を捧げ 併せて、戦後未だ困窮生活の中にあって 遠き長崎の地より京都の地へ送り出してくれた 亡き両親に心より深甚な感謝の気持ちと礼を届け 稿を閉じる。感謝!!

 参考文献 本井康博著「新島襄と建学の精神」

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グレース教会全景

礼拝堂

新島襄が訴えた演台

メイフラワー号U

Feb. 05,2009

 山本覚馬の「管見」
    東京新島研究会 2008年12月16日および2009年1月19日発表
    発表者 長嶋啓介(昭和41商)

 山本覚馬(1828〜1892)は、「此人物無かりせば、方今同志社なし。」とまで同志社を知る人々は異口同音に言い、また新島襄がシーリー恩師宛の書簡中で “one of prominent men” と認めたことも、同志社人にはよく知られている。

 覚馬が薩摩藩邸の稽古場に監禁されたのは明治元年1月である。監禁されていたのは覚馬だけではなく、同じ会津藩の松本清次郎、野澤鶏一、安住運次郎らと一緒であった。目の見えない覚馬が口述したものを、野澤に筆記させ、これまでの経験と知識のすべてを注ぎ込んで、ほぼ一ヶ月掛かって1万字に及ぶ先見性にあふれ、新しい時代への期待をかき立てる「管見」を完成したのである。

 全体を通してみると、貫かれているのは効率を重視した近代的合理精神である。覚馬は、多くの外国人から西洋の事情を学び、佐久間象山、勝海舟、横井小楠、西周といった当代一級の知識人たちの影響を受けて、独自の思想を展開している。

 「管見」には、封建的な制度を廃し、国民の主権を優先する思想が流れている。それは、横井小楠が文久2(1862)年に幕府に建言した「国是七条」のなかの「大いに言路を開き、天下とともに公共の政をなせ」という思想ときわめてよく似ている。

 越前藩に招かれた小楠は「国是三諭」を建言し、富国強兵のための殖産振興に力を入れた。京都府顧問となった覚馬が取り組んだのも将にそれであった。志半ばでたおれた小楠の政治構想は、覚馬によって継承され、京都で実現したのである。

 維新以後の日本を取り巻く國際情勢を念頭に、諸制度の望ましく信ずる方向を提言した22項目の広範囲にわたる建言書を、新政府の実行状況と合わせて、逐語的に検証してみたい。

長嶋講師

受講風景

 

以下の記事はこれまで「新島襄エピソードプラスワン」ページに掲載されていたものです

Aug. 30, 2007

 東京新島研究会   - 新島襄のテレビドラマ -
 テレビドラマ「女のたたかいー会津そして京都」の鑑賞会が同志社東京オフィスで7月11日(水)午後1時半から行われました。

 この鑑賞会は関東在住同志社校友の有志の集まりである東京新島研究会(会長 西村四郎さんー23年経卆)が月1回開いております研究発表の一プログラムとしておこなわれたもので、当日会員以外の方々も多数出席頂けました。
このドラマの原作は同志社出身の福本武久さんが書き下ろされた「新島襄とその妻」で、それを朝日放送が昭和60年11月(1985年)、同社創立35周年記念ドラマスペシャルとして制作(脚本 早稲田出身の阿部哲郎氏)されたもので、関西地方の方々でご覧になった方は多いと思われます。

 私は、新島研究会会員が本や資料によるのではなく、目で新島襄その人を観察し、モーティベーションを高め、いろいろな研究に役立てられればとの思いがあり、その時思い出したのがこの作品だったのです。 偶々、このドラマをプロデュ―スしたのが同志社時代の英文学科の同窓、西村大介君だったので、彼に頼めばビデオテープが借りられると簡単に考えたのです。

 彼に連絡を取ってみると、「家にない」との返事。 誰かに貸し、回りまわって何処かに行ってしまったとの残念な話。「制作の朝日放送からは、著作権が絡んでいるので借りられないだろう」との事。後は同志社にも一本ある筈だから、頼み込んで借りるしかない」との怪しげな雲行き。

 そういう諦め半分の或る新島研究会の日、研究会会員のお一人であり、先輩の平岡敏雄さん(30年商卆)が会場にビデオテープ゚らしき物を持っておられるのを見て、お聞きした所、私が春先から探し求めていたドラマのテープだったのです。 平岡先輩は関西在住の同志社の同窓、樋口昌宏さん(28年法卆)からつい最近譲りうけたものだそうで、樋口さんは平岡さんが、東京新島研究会で活躍されている事を聞き、贈呈されたようです。

 一つの事にいろいろな人が絡み合って、鑑賞会に結びつき、映像を通して新島襄にお目にかかれたのは、神のお導きだったのでしょうか。

 ドラマの筋書きは題名にあるように、山本八重の戊辰戦争時の会津鶴ヶ城での鉄砲かついでの従軍、その後、兄山本覚馬のいる京都に移り、同志社創立時の新島襄と結婚。 社長夫人として新島襄と同志社の為、会津魂を持って奮闘する姿が描かれているのです。

 又、新島先生のRutlandのGrace教会での演説、感激した老農夫による2ドルの献金。その後日本に帰っての同志社の設立、資金集めの御苦労、アメリカンボードとの関係、教会合同運運動についての苦悩等も描かれ、同志社から去っていった徳富蘇峰が「自分は新島先生を捨てたが、新島先生は自分を捨てなかった。 新島先生は品格ある教育者である」と述べる場面、八重夫人が京都から駆けつけ、小崎弘道等3人の立会いの下、亡くなる2日前、2時間に亘る新島先生の遺言の口述筆記を蘇峰にさせる場面、後々の同志社の行くべき道、特に「倜儻不羈なる書生を圧迫しないで、出きるだけ彼等の本性にしたがって個性を伸ばすようにして天下の人物を養成すること」という言葉を我々同志社人に残された雰囲気がもろに伝わってくるようでした。

 配役は良心碑の碑文「良心を全身、、、、、、、、、、、」に感銘したという新島襄役の滝田栄さん。風格があり、「見事な新島ぶり」と当時の松山総長からお墨付きを与えられた程との事。また八重さん役はコマキストと呼ばれた栗原小巻さんで、ブレーキのない当時の自転車に乗るシーン、会津魂を持つ男まさりの八重さんを見事演じ、特に、新島先生から洗礼を受け、「五平さん」といつも「さん」付けで呼び親しまれた新島家の番頭役の花沢徳衛さんの名わき役振り。

 鑑賞会後の話題として、RutlandのGrace教会で、2ドルの寄付をされた老農夫は、黒人として描かれていた事で、新しい発見でした。 殆どの出席者は、白人の老農夫と考えていたことです。

 この鑑賞会の担当役として最後に挨拶された平岡先輩は、涙で言葉が詰まるほど感激され、卒業後50年近くなっても、新島襄と八重夫人を映像を通して学び、偲び、「同志社人でよかった」と、心から感謝の気持ちが自然に沸き起こり、感極まって涙する純粋な気持を持たれたのは先輩お一人だけではなかった筈です。。 非常に清清しい鑑賞会でした。又、同志社におかれましても、このビデオテープを「同志社科目」の一プログラムとして利用し、活用され、改めて、新島先生の教育理念を思い起こさせ、数多くの倜儻不羈なる人物の輩出の起爆材になることを期待しております。

 この鑑賞会を可能ならしめられた平岡先輩にお礼を申しあげたいと思います。
 有難う御座いました。
                2007年7月   松村 七五郎(S35年文卆)

Dec. 7, 2006

 東京新島研究会   - 山本覚馬と会津藩 -
11月16日(木)1時10分から4時。於:同志社大学東京オフィス

 例会に先立ち「新島先生の足跡を訪ねる会・岡山、玉島の旅」のビデオを上映しました。

 その関係で今回は26名と今までの最高の出席者でした。

 この旅で私達は「新島襄と岡山のかかわり」(8月例会で三瀬安彦さん発表)を実地検証、実りの多いものでした。ビデオは、高梁および玉島のCATVのニュース番組の録画ですが、このニュースによって地元の人々にも新島襄のことを知っていただくことができました。また、これを機に玉島の校友により「玉島新島研究会」が発足しました。

 さて、今回は松村七五郎さん(昭35文)による「山本覚馬と会津藩」。淀君の時代に逆上って会津の歴史が紹介されました。保科正之(家康の孫)が会津23万石の城主になったのが始まりで、以後松平姓を名乗ります。第九代藩主・松平容保は、幕末の動乱期に幕政に参画、京都守護職に就き、公武合体を推進。会津戦争では佐幕派の中心となって戦ったが敗退。大政奉還後も徳川慶喜は権力を保つが、容保は朝敵の汚名を看せられる。孝明天皇崩御の時、京都守護職を辞して会津に帰る決意をするが、慶喜によって京都にとどめられる。

 山本覚馬は、こうした時代の会津藩で会津のリーダーとして長州と対立しました。因に長州の隊長は高杉晋作。明治2年遷都の時にも病身だった覚馬は京都を離れませんでした。「覚馬が会津藩でありながら、地方(京都)官僚の地位を保つことができたのはなぜか?」という問題に「明治政府は今後いかにあるべきかについての、覚馬の見解を書いた「管見」を、岩倉具視が高く評価し、官に招聘、京都府顧問に迎えた」などの議論が交わされました。

 また「松平容保の実子の容大が同志社で学んだという記録があるが、覚馬の奨めだろうか?」という声も。

 「新島は同志社をつくる際にも、国の力を借りず私立を目指した。しかし、明治政府の高官とは親交が深く、財界人とも懇意にしていた。これは新島の人柄の良さのためでもあるが、新島の心の広さであると考える」という発表があり、新島襄の心の広さについても考察しようということになりました。

                     木村ケイ(昭29文)

Aug. 23, 2006

 8月の東京新島研究会
     ― 新島襄と岡山のかかわり ―
 8月2日(水)PM1:30~4:00 於:同志社大学東京オフィス、今回は、会員の三瀬安彦さん(昭36商)の研究発表です。

(要旨)
 新島襄のアメリカの脱国を決意させた要因は、快風丸による玉島航海である。快風丸は、備中松山藩の特産品の輸送用と戦時の軍艦としてアメリカから購入した180トンの洋風帆船。1862年(文久2年)19歳の新島は、蘭学を学び算術や航海術を勉強し、幕府の軍艦操操練所へ通った経歴を評価されて、江戸と玉島間往復試運転航海に乗り組むことができた。その頃までにロビンソークルーソー物語や連邦志略、オランダ語や漢文の聖書を読んでいて海外への憧れが強かった新島は、この快風丸による玉島航海によって、脱国の決意を固めたのである。

 アメリカから帰国後、新島は5〜6回岡山を訪れている。岡山が、アメリカンボードの重点伝道地域となっていたことと、安中板倉藩の宗家備中松山藩の備中高梁があったことが岡山訪問の理由と考えられる。

 新島には教育者としての側面と伝道者としての側面があり、この二面は重なり合っているが、岡山に於ける新島は、伝道者としての活動が主であった。

 新島の伝道、教会形式、教会運営の考え方の根底にあるのは、自由・自主・独立である。

 三瀬さんのお話は、玉島航海についてはもちろんのこと、アメリカから帰国後の岡山訪問の詳細、岡山に於ける教会の発展史、新島精神を受けついで活躍した弟子達についての考察など、充実した内容でした。伝道者としての新島を継ぐ弟子達のほかに教育者としての新島の後継者について活発な発表があり、2時間半は短く感じられました。

 次回は9月14日(木)PM1:30〜4:00 長嶋啓介様の「山本覺馬の生涯」です。
                   以上

 
 「同志社文学雑誌」 (明治20年)
 西村四郎さんは「同志社文学雑誌・第壱号」「同・第参号」「新島先生言行録」「新嶋先生就眠始末」(「新嶋」となっています。恐らく新島先生が米国留学中は「Niishima」だったところからそう書かれたのでしょうか)の古書4冊をお持ちだそうです。ご興味のおありの方々は直接西村四郎さんにお尋ねください。以上4冊の表紙を以下に示します。
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