テレビドラマ「女のたたかいー会津そして京都」の鑑賞会が同志社東京オフィスで7月11日(水)午後1時半から行われました。
この鑑賞会は関東在住同志社校友の有志の集まりである東京新島研究会(会長 西村四郎さんー23年経卆)が月1回開いております研究発表の一プログラムとしておこなわれたもので、当日会員以外の方々も多数出席頂けました。
このドラマの原作は同志社出身の福本武久さんが書き下ろされた「新島襄とその妻」で、それを朝日放送が昭和60年11月(1985年)、同社創立35周年記念ドラマスペシャルとして制作(脚本 早稲田出身の阿部哲郎氏)されたもので、関西地方の方々でご覧になった方は多いと思われます。
私は、新島研究会会員が本や資料によるのではなく、目で新島襄その人を観察し、モーティベーションを高め、いろいろな研究に役立てられればとの思いがあり、その時思い出したのがこの作品だったのです。 偶々、このドラマをプロデュ―スしたのが同志社時代の英文学科の同窓、西村大介君だったので、彼に頼めばビデオテープが借りられると簡単に考えたのです。
彼に連絡を取ってみると、「家にない」との返事。 誰かに貸し、回りまわって何処かに行ってしまったとの残念な話。「制作の朝日放送からは、著作権が絡んでいるので借りられないだろう」との事。後は同志社にも一本ある筈だから、頼み込んで借りるしかない」との怪しげな雲行き。
そういう諦め半分の或る新島研究会の日、研究会会員のお一人であり、先輩の平岡敏雄さん(30年商卆)が会場にビデオテープ゚らしき物を持っておられるのを見て、お聞きした所、私が春先から探し求めていたドラマのテープだったのです。 平岡先輩は関西在住の同志社の同窓、樋口昌宏さん(28年法卆)からつい最近譲りうけたものだそうで、樋口さんは平岡さんが、東京新島研究会で活躍されている事を聞き、贈呈されたようです。
一つの事にいろいろな人が絡み合って、鑑賞会に結びつき、映像を通して新島襄にお目にかかれたのは、神のお導きだったのでしょうか。
ドラマの筋書きは題名にあるように、山本八重の戊辰戦争時の会津鶴ヶ城での鉄砲かついでの従軍、その後、兄山本覚馬のいる京都に移り、同志社創立時の新島襄と結婚。 社長夫人として新島襄と同志社の為、会津魂を持って奮闘する姿が描かれているのです。
又、新島先生のRutlandのGrace教会での演説、感激した老農夫による2ドルの献金。その後日本に帰っての同志社の設立、資金集めの御苦労、アメリカンボードとの関係、教会合同運運動についての苦悩等も描かれ、同志社から去っていった徳富蘇峰が「自分は新島先生を捨てたが、新島先生は自分を捨てなかった。 新島先生は品格ある教育者である」と述べる場面、八重夫人が京都から駆けつけ、小崎弘道等3人の立会いの下、亡くなる2日前、2時間に亘る新島先生の遺言の口述筆記を蘇峰にさせる場面、後々の同志社の行くべき道、特に「倜儻不羈なる書生を圧迫しないで、出きるだけ彼等の本性にしたがって個性を伸ばすようにして天下の人物を養成すること」という言葉を我々同志社人に残された雰囲気がもろに伝わってくるようでした。
配役は良心碑の碑文「良心を全身、、、、、、、、、、、」に感銘したという新島襄役の滝田栄さん。風格があり、「見事な新島ぶり」と当時の松山総長からお墨付きを与えられた程との事。また八重さん役はコマキストと呼ばれた栗原小巻さんで、ブレーキのない当時の自転車に乗るシーン、会津魂を持つ男まさりの八重さんを見事演じ、特に、新島先生から洗礼を受け、「五平さん」といつも「さん」付けで呼び親しまれた新島家の番頭役の花沢徳衛さんの名わき役振り。
鑑賞会後の話題として、RutlandのGrace教会で、2ドルの寄付をされた老農夫は、黒人として描かれていた事で、新しい発見でした。 殆どの出席者は、白人の老農夫と考えていたことです。
この鑑賞会の担当役として最後に挨拶された平岡先輩は、涙で言葉が詰まるほど感激され、卒業後50年近くなっても、新島襄と八重夫人を映像を通して学び、偲び、「同志社人でよかった」と、心から感謝の気持ちが自然に沸き起こり、感極まって涙する純粋な気持を持たれたのは先輩お一人だけではなかった筈です。。 非常に清清しい鑑賞会でした。又、同志社におかれましても、このビデオテープを「同志社科目」の一プログラムとして利用し、活用され、改めて、新島先生の教育理念を思い起こさせ、数多くの倜儻不羈なる人物の輩出の起爆材になることを期待しております。
この鑑賞会を可能ならしめられた平岡先輩にお礼を申しあげたいと思います。
有難う御座いました。
2007年7月 松村 七五郎(S35年文卆)
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