同志社東京校友会ホームページへようこそ |
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ここは 新島襄エピソードプラスワンのページ |
Feb. 14, 2011 |
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「生涯石ころ」の精神で創設した大学、桜美林大学 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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S35年文学部ご卒業の千葉県在住・松村七五郎様より桜美林大学と同志社とのつながりをお調べになった結果のレポートを頂きましたので、ここに校友の皆様に広く読んでいただけるように掲載いたします: | |||||||||||||||||||||||||||||||
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桜美林大学は同志社大学神学部卆の清水安三により昭和21年に創立された綜合学園で、桜美林という校名は創立者が後年学んだアメリカ.オハイオ州、オベリン大学と学園が桜の林に囲まれている所を重ね合わせて名付けられ、その趣旨として、「学園はキリスト教主義の教育によって、国際的人物(International Character)を養成するをもって目的とする」とある。 その理念を実践する為、他私立大学にない学問的教科専門(リベラルアーツ)の教育機能に重点を置いた学群と職業的教科専門(プロフェッショナルアーツ)の教育機能に重点を置いた学群を設置するという学群制を敷いている。 清水安三(明治24年6月生)は滋賀県出身で、14才の時ヴォーリズ(同志社カレッジソングの作詞者)に出会い、キリスト教の感化を受け、明治43年同志社大学神学部に進む。 その動機は、17才の時洗礼を受けた日の礼拝説教者牧野虎次牧師(後の同志社総長)が「新島先生は、よくこうおおせられた。即ち神は同志社のキャンパスにころがっている石ころさえも、なおよく新島襄とはなしうるのである」と言われた言葉に影響を受けた事で、「神はこの石ころのような劣等生清水安三をすらも、尚同志社の創立者新島襄となしうる」と自分の身に当て嵌め、確信し「石ころの生涯」を始める。 卒業後、日本人で初めて中国で布教活動を始め、北京で貧困に喘ぐ女子を対象とする崇貞平民工読学校設立。中国人のみならず、中国に住んでいた朝鮮人にも人道的な教育を施し、日本人にも門戸を広げた。 戦後帰国し、後妻の清水郁子(女子教育家、旧姓小泉)と共に町田に桜美林学園を創立する。 キャンパスは、街に住む人たちとの一体感を考え、正門も守衛も塀もなく、教室でも、教師はいつも生徒と同じ目線の関係にあるべしとの考えから教壇もなく、皆から「安っさん、安っさん」と呼ばれていた事等、様々な点において新島襄の平民主義的姿勢が伺えられる。 同志社は昭和50年(創立100周年)、清水安三氏に名誉神学博士号を贈呈し、その功績を讃え、又深い母校愛にお応えした。 第二の新島襄たらん事を夢見る 新島襄を尊敬し、キャンパスには「夢、大学の設立こそは少(わか)き日に新島襄に享けし夢かも」と詠んだ碑が建てられている。 今回の取材には、榑松教授、伊藤事務室長、同志社御出身のチャプレン三谷教授等六名の方々に御協力頂き厚くお礼申しあげると共に、桜美林学園の御発展を祈るものです。 松村 七五郎(昭35年文) |
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Nov. 12, 2009 |
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「新島襄の足跡を辿る」講演と写真展 in Tokyo | |||||||||||||||||||||||||||||||
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Apr. 25, 2009 |
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校友多田直彦様(S35文)よりの投稿3件 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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同志社創設者 新島襄 生誕地碑前祭 ある同志社マンの会合で、新島襄の生誕地を尋ねましたら「安中」という回答半数おられました。(正しくは安中藩江戸上屋敷=神田一橋、現在の学士会館が位置する付近です)。このようなお祭りが、毎年、開催されています。 |
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新島襄に関する出版物 一冊は、マンガ。もう一冊は、検定本。これを解きながら新島襄について勉強ができます。どちらも神学部の本井康博教授の監修です。 1.『マンガで読む新島襄 自由への旅立ち 』 発行:同志社大学 発売:株式会社コトコト 定価:952円プラス税 2.『新島襄検定100問 −同志社大学の軌跡− 』 企画・編集・制作:同志社大学 発売:株式会社コトコト 定価:667円プラス税 |
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東京駅八重洲口の同志社PR版 改装が進んでいる東京駅で目を見張るのが、新島襄のことば。 |
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Mar. 10, 2008 |
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2008年2月12日新島襄生誕碑前祭が行われました | |||||||||||||||||||||||||||||||
例年の新島襄先生の生誕碑前祭が2008年2月12日に、生誕地近郊の学士会館で行われ、同志社大学大谷総長、同志社大学田中校友課長、東京校友会支部長、校友20数名が参加しました。
現役学生4名も参加し、新島襄の東京一ツ橋の安中藩での生誕を偲びました。 掲載の小さな画像はいずれもそれぞれクリックすると大きな画像になります。 |
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Dec. 09, 2007 |
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新作能 庭上梅(テイショオノンメ)〜新島襄を讃えて〜 東京公演のご案内 | |||||||||||||||||||||||||||||||
Mar. 11, 2007 |
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「新島襄を語る」(三) 本井康博(同志社大学神学部教授)著 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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Aug. 30, 2006 |
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下北半島・風間浦「新島襄寄港記念碑」碑前祭の旅 ― 同志社校友会青森支部、同志社同窓会青森支部 ― |
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秋…本州のテッペンに立ってみよう 一下北半島・風間浦「新島襄寄港記念碑」碑前祭の旅一 霊場・恐山/マグロー本釣り・大間町 9月18日(祝日)・19日(火) 帆船・快風丸で函館を目指した新島裏は、激しい風と潮を避けて下北半島の風間浦村・下風呂(かざまうらむら・しもぶろ)に寄港しました。1864年4月、新島21歳のことでした。2日間にわたり下風呂温泉につかり「重き荷物を卸し侯許り」と父に書き送りました。その2カ月後、新島は死を賭して国禁を犯し、函館からアメリカ商船ベルリン号で脱国を果たしたのでした。 同志社校友会青森県支部と同志社同窓会青森県支部は、これを記念して「新島裏寄港記念碑」の建立を風間浦村に働きかけ、1972年、同村「いさり火公園」に松山義則前総長ご揮毫の「新島襲先生寄港の地」碑が建立されました。その後、同村と両支部は毎年、同志社総長をお招きして「碑前条」を実施してきました。 今年で「碑前祭」も15回目になります。これを記念して、このたび全国の校友・同窓のみなさまに「碑前祭」へのご参加を呼びかけることにしました。せっかくの下北ご訪問となりますので「霊場・恐山(おそれざん)」とマグロー本釣りで有名な「大間町(おおままち)」の訪問をセットしました。1泊2日の本州最北端の旅を楽しんでみませんか。 立ち上がりが遅れ、急なご連絡となりましたが、ふるってご参加くださるようお誘い申しあげます。 |
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詳細は以下の案内状をご参照ください。 各書類画像をクリックすると大きくなります。 |
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May 5, 2006 |
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Dan Brown氏の著書/翻訳本として角川書店から出版されました | |||||||||||||||||||||||||||||||
当支部校友の芝井啓一様(S35経、ESS)より当HP管理人宛に以下のようなご報告が寄せられましたので、ここに皆様にご披露いたします。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
ダン・ブラウンの"DIGITAL FORTRESS"が翻訳本として角川書店から出版されました。邦訳題名は、「パズル・パレス」で上・下巻になっています。文中に「同志社大学」と記述されています。以上お知らせ致します。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
April 13, 2006 |
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ベストセラー作者のDan Brown氏の著書に「Doshisha」の文字が・・・! | |||||||||||||||||||||||||||||||
当支部校友の芝井啓一様(S35経、ESS)より当HP管理人宛に以下のような貴重なご意見が寄せられましたので、ここに皆様にご披露いたします。 |
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「ダ・ヴィンチ・コード」で有名な世界的ベストセラー作者のDan Brown氏の書いた”DIGITAL FORTRESS"の中に同志社大学に奨学金で入学したとされる日本人が描かれており、私は同書物をペーパー・バック(多分まだ日本語訳版は出てないと思いますが・・・)で読みましたが、文中にはっきりと”Doshisha University”と記述されています。本の中全体で”Doshisha”は5回使われています。世界的ベスト・セラーの小説で取り上げられることは大変なことだと思います。多分、作者のDan Brownがアーモスト大学の出身であるからではないかと推測されます。本件につき、或いは既にご承知の事であれば聞き流して下さい。
Dan Brownについては http://www.danbrown.com/meet_dan/index.html をご参照下さい。ここに彼がアーモスト大学の出身であることが紹介されています。 ついでに言うなれば、「同志社」は夏目漱石にも司馬遼太郎の小説にも登場しています。 |
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July 15, 2005 |
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本井康博先生著『千里の志---新島襄を語る(一)----』が出ました | |||||||||||||||||||||||||||||||
May 26, 2005 |
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良心教育 | |||||||||||||||||||||||||||||||
Mar. 29, 2005 |
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同志社二百年 | |||||||||||||||||||||||||||||||
同大神学部教授の本井康博先生に、「2005同志社東京・春の集い」のガイドブックに「同志社二百年」と題して一筆をお願いしました。その内容がまさにこの「新島襄エピソードプラスワン」ページにふさわしいものですから、ここに掲載させていただきます:
「同志社の完成には二百年」と新島襄が勝海舟の問いに答えた、という周知の挿話は、勝海舟全集にも新島襄全集にも出ない。最初にこれを記事(ただし典拠は未記入)にしたのは、次の石塚正治編『新島先生言行録』(一二五頁、福音社、一八九一年)であろう。 「●二百年の後を期す 先生の始めて勝伯に面するや、伯先ず問うて曰く、同志社は何年を期して成らしめんと欲するやと。先生答えて曰く、これ真神の事業なり、先ず二百年の後を期せざるを得ざるべしと。ここにおいて、伯大いに先生を信ずるに至りしという」。 ところが、最初の会談に立ち会った津田仙は別の証言を残す。新島は「凡そ三百年のつもり」と答えた、という(原田助『信仰と理想』八九頁、警醒社、一九〇九年)。 海舟をよく知る徳富蘇峰によれば、海舟は「日本を良くするには五百年くらいかかる。新島のようにあんなに急いでは命がもたぬ」と漏らしたという(拙著『新島襄の交遊』二三一頁、思文閣出版、二〇〇五年)。その点では、「三百年」の方が海舟受けしたであろう。いずれにせよ、ものを見るふたりのスパンの長さはさすがである。 本井康博(同志社大学神学部) |
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04-09-10「Joe」さん書き込みの掲示板メッセージはこちらに移動しました | |||||||||||||||||||||||||||||||
Boston在住の、同志社大学神学部をご卒業された「Joe」さんより、過日9月10日に、同大グリークラブのボストン訪問を記念する礼拝でのお祈り、式次第、そして新島襄先生とボストンとの関わりについての英文書き込みがありました。
2週間程は掲示板に掲載させていただきましたが、あくまでこれは例外的措置でして、掲示板使用に当たってのルールとしましては、10行前後での掲載を皆様にお願いしていることから、折角の書き込みでもありますことで、こちらに移動させていただきました。 どうぞここをクリックしてお読みいただきたいと存じます。 ご協力ありがとうございます。 |
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新島襄記念教会堂(安中市)を有形文化財に登録申請 | |||||||||||||||||||||||||||||||
明治のキリスト教教育者「新島襄」先生を創始者とする我等が同志社には、歴史が古いだけに、歴史的価値の高い、多くの貴重な品々が遺されていますが、中でも、本校京都市内・今出川キャンパス内には五つ国重要文化財指定のレンガ造りの建物があります。
彰栄館(1884年、明治17年)、礼拝堂(1886年、明治19年)、有終館(1887年、明治20年)、ハリス理化学館(1890年、明治23年)そしてクラーク記念館(1894年、明治27年)がその五つの重要文化財です。本WebサイトのTOPページの画像はその礼拝堂の写真を画像処理したものです。 その他建物ではたとえば京都市指定有形文化財の「新島襄旧邸」などがありますが、新島襄先生のゆかりの地・群馬県安中市(父が安中藩士、先生自身は江戸安中藩邸生まれ)に、先生没後30周年の1919年(大正8年)に造られた「日本基督教団安中教会教会堂(新島襄記念会堂)」を、この度9月17日、文化審議会は、他の建造物と共に文部科学省に「有形文化財」としての登録申請をしました。 関連記事として日経9月18日朝刊に、また同社「NIKKEI NET」に掲載されていますので、ご参考までにご覧になっては如何でしょうか。「NIKKEI NET」のURLを下記します。(現在日経新聞社に掲載許可を申請中のためハイパーリンクをできませんので、ご面倒でも下記URLを注意深く手で打ち込んでアクセスをお願いします) http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20040918AT1G1501O17092004.html 2004-09-23 以上 |
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新島襄遺品展示会のご案内 | |||||||||||||||||||||||||||||||
同志社大学では、2003年8月29日(金)まで今出川キャンパス・ハリス理化学館2階のNeesima Roomにおいて「遺品から見る新島襄企画展」を開催されています。新島襄生誕160周年を記念して「新島遺品庫」から重要な品々数十点が選択され、展示されています。すでにご覧になられた東京弓友会の山口弘治先輩から、良かったので校友の皆さんも京都へ行かれる機会があれば、ぜひ足を延ばされるように、とおすすめをいただいています。 |
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新島先生と鎌倉の海浜院 ・ 八木政三(昭20経卆) | |||||||||||||||||||||||||||||||
同志社東京ニュース「The Doshisha Tokyo
News」平成5年2月10日号に八木政三さん(鎌倉市在住・校友)による、新島先生が明治21年に病に倒れ入院なさった「鎌倉海浜院」は現在何になっているのだろうかと調査なさったときの苦労話の記事があります。氏の記事によれば「鎌倉海浜院」はその後2年で閉鎖され、その後「鎌倉海浜ホテル」として生まれ変わったそうです。しかし第二次大戦後進駐軍の接収下で昭和20年、21年の二度の火災で消失してしまったそうです。現在はその跡地に「鎌倉シーサイドテニスクラブ」ができているとのことです。以上の記事にご興味の方々は是非この下の小さな写真をクリックして八木さんの記事を読まれてください。 また、今はない「鎌倉海浜ホテル」の貴重な、戦前のパンフレットを西村四郎さんにご提供いただきましたので、その一部を皆さんにお見せしましょう。パンフレットそのものをご覧になりたい方は西村さんに直接お尋ねください。 ←(当時の部屋代がわかって面白いです) |
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新島襄終焉の地碑前祭/生誕の地碑前祭 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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2002年11月3日〜30日 新島襄肖像画が展示されました | |||||||||||||||||||||||||||||||
弓友会(体育会弓道部OB/OG会)最長老で2002年10月満90歳(卒寿)を迎えられた山口弘治大先輩(横浜在住)より、当支部に連絡があり、「11月のある日ぶらっと一人旅で京都に行き、今出川キャンパスの理化学館で「新島襄先生肖像画」「ワイルド・ローヴァー号絵画」「H.S.テイラー船長一族写真」を見学しました。これらの写真を是非一人でも多くの方々に見ていただきたいと思います。同志社ネットで取り上げては如何でしょうか」 とのことでした。早速関係資料を取り寄せ、ここに掲載させて頂くことにしました。ご協力いただいた関係各位に感謝します。 なお、それぞれの小さい写真(サムネイル)をクリックすることにより大きな写真を見ることができます。 |
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アーモスト大学の1870年クラスが卒業後30年を記念して制作し、アーモスト大学に寄贈したもの。 当初は図書館に掛けられたが、まもなくジョンソン・チャペルに移された。制作は1901年、今回一世紀振りにアーモスト大学のご好意により日本で初公開されることとなった。 これまでこの肖像画に関しては「制作者は不明」とされることが多かったが、アーモスト大学アーカイヴスの学芸員(D.ダリアンゾー)の調査により、A.E.スミス(A.E. Sumith 1863 - 1956)と判明。 新島の写真をもとに描かれたが、当時イエール大学に留学していた牧野虎次(のちに同志社総長)が資料提供をした。最終的にはA.S.ハーディ(A.ハーディの三男)が編集した新島伝に掲載されていたものがベースになった。 卒業30年(1900年)を記念して、新島のクラスメートがかってのクラスメートの中からひとり選んで肖像画を作成することを決め、スミスに制作を依頼した。 スミスはボストン美術館ならびにパリのジュリアン・アカデミーでG.R.ブーランジュ(Gustave Boulanger, 1824 - 1888)やJ.J.ルフェーブル(Jules Joseph Lefevre, 1836 - 1911)などに師事して美術を学んだボストンの肖像画家である。 なお、同肖像画は第二次世界大戦中も降ろされることなく、ジョンソン・チャペルの正面の「honored place」に掛けられてきた。 |
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帆船「ワイルド・ローヴァー号」のH.S.テイラー船長と47人の親族の顔写真を1枚に編集した写真で、チャタム歴史協会所蔵。テイラー船長は「ジョー(Joe)」の名付け親。新島を弟のようにかわいがり4度も実家に招いた。この組写真はテイラーの両親の金婚式のお祝いとして作成されたもので、新島は「船長が両親にプレゼントした写真は大変きれいな集合写真で、すべての親族が47人写っています。(中略)私が家族の一員に数えられています」と述べている。 |
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上の集合写真の右上の写真を拡大したもの。この真ん中上の写真が新島。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
元治元年(1864)3月新島襄は国禁を犯してまで、不退転の決意で函館を出港。上海でベルリン号からワイルド・ローヴァー号に乗り継ぎ一路北米に向かった。テイラー船長は、船主で貿易会社の経営者であったアルフュース・ハーディーを新島に紹介した。その後ハーディーは新島の米国滞在中の10年間スポンサーになっていた。 ワイルド・ローヴァー号のこの絵画は同志社創立90周年の時に借り出して依頼、2度目の来日となる。 |
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注記: 上記写真および説明文は「The Doshisha Times」の平成15年1月15日第574号第8面に掲載のもの、および同志社大学主催、アーモスト大学チャタム歴史協会協力による、同志社大学ホームカミングデー2002「特別展示」のパンフレットに掲載の文章より、使わせていただきました。 |
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新島襄生誕の地の碑が絶好の位置に移設 | |||||||||||||||||||||||||||||||
新島先生の生誕の地の碑は、神田一橋の学士会館の敷地内にありますが、これまではよくさがさなければその位置がわかりませんでした。ところが、昨秋の学士会館改修、リフォームにあたって、新島先生の碑は、学士会館右側の奥から白山通りの方へ、つまり学士会館の右玄関近く(交差点近く)に移設され、「東京大学発祥の地」の案内板と背中合わせの場所にお披露目されました。都内史跡めぐりの一つの場所になりそうです。ぜひ一度、ご自分の目で確かめてください。 (Jan.05, 2003) | |||||||||||||||||||||||||||||||
交遊抄 アーモスト館 高谷 保宏 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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安中訪問 | |||||||||||||||||||||||||||||||
「石鉄(いしかね)も透れかしとてひと筋に、射る矢にこむる大丈夫の意地」 (寄稿)abeshu |
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